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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/1/10/issei-pioneers/

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その2

>>その1

日本の状況

日本人移民たちは故郷を離れた寂しさと過酷な労働に苦しんでいたが、給料日がくると母国を離れた理由を思い出し自分を励ましていた。「3年で400円」という目的があったのだ。当時、日本で同じ額を貯めるには、日雇い労働者は7年、製糸工場労働者は10年もかかったのである。ハワイにおける耕地労働者の1ヶ月の賃金が17.65円であったのに対して、1884年における広島県農民の年間所得は14.48円、1885年はわずか9.98円であった。1

明治政府は急速な近代化に必要な資金を補うため、農民に重税を課した。その上、不況、高い失業率、人口過密、飢饉、政治混乱などの問題が社会に重くのし掛かっていた。1884年、「ジャパン・ウィークリー・メール」紙は悲惨な業況を以下のように伝えている。「農民階級はかつてないほどの不満を抱いている。ほとんどの農民は税金を納めることもできず、ある村では何百もの農家が借金を清算するため土地を処分せざるを得なくなっている。」2この経済恐慌は農民と同時に小規模商業者にも打撃を与えていた。また前年度は豊作だったにもかかわらず、相場や賃金が急落したので、低所得者層は食べ物を買えず木の根や皮を食べたり、なかには飢え死にする者まで出る始末であった。3

もともと日本人の海外渡航は、1868年に明治維新を迎えるまで禁止されていた。徳川時代に日本は鎖国に入り、以来オランダ人、中国人、韓国人だけが長崎に入ることが許され、日本人が外国へ渡航した場合には死刑となったのである。

この鎖国政策は、1853年、日本の開国を求めるアメリカのフィルモア大統領の所管を携えたマシュー・C・ペリー提督が、東京湾に軍艦で来航したことで終結することとなった。ヨーロッパ諸国とともに世界中で植民地拡大をはかるアメリカは、日本に貿易上、戦略上、大きな関心を持っていたのである。

ペリー提督の来航は、すでにかげりの見え始めていた徳川封建体制の崩壊に拍車をかけ、明治維新を早めることとなった。明治新政府指導者は、欧米の進んだ技術、軍事、法律、政治制度を積極的に取り入れ日本の近代化に乗り出した。彼らは、「欧米に追い付こう」と固く心に決めていたのである。その甲斐あって、20世紀に入る頃には日本は、孤島の封建国家から軍事大国へと変貌した。しかし、この発展の代償を払ったのは、新しく導入された土地税を課せられた小規模農民であった。その他に、前述のような国内政治の混乱、恐慌、失業増加、干ばつ、不作、人口過密、飢饉なども加わり、国民の困窮は深まるばかりであった。このような、国内事情に直面する一方、世界各国から労働者を求められ、遂に明治政府は国民の海外渡航を許したのである。

両親が福岡県で農民だった氏家キクジによれば、どこもかしこも土地を担保に取られ、失業者が蔓延し、誰しも毎日を生き延びることしか頭になかった状態だった。父親の死後、残された借金を返済するため、キクジは1913年ハワイに渡り、パイア耕地で働いた。ハワイにいても、彼は常に日本に残した借金が気になり、元旦と天皇誕生日に休んだだけで、残る363日を働き続けた。4

官約移民が行われていた時期(1885-1894)、ハワイに渡った移民のほとんどは家長か長男であった。5その要因の一つとして、1873年に制定された徴兵制度によって、一家の跡継ぎと海外への移民は兵役が免除されていたことがあげられる。例えば、長男を海外へ送り、次男を跡継ぎにすると、二人の息子を一度に兵役から解放することができたのである。沖縄からの移民、比嘉トウデンも長男であった。沖縄に居続ければ、いつかは徴兵されるのではないかと彼の両親が心配して、ハワイへ行くことを進めたのだ。6

ハワイ行きを希望する人々の間では、あたかもハワイが地上の楽園でもあるかのように宣伝したパンフレットが広く読まれていた。それに移民たちから家族や村に送られた多額の金子によって、ハワイには「金のなる木」があるというような話がまことしやかに信じられるようになった。実際、シティ・オブ・トキオ号で、ハワイに来た官約移民第一団は、数ヵ月後の間に日本へ4千ドルもの送金を行った。岩瀬勘助が10ヶ月間で130円を送金したときには、故郷の山口県大島中にその噂が広がり、誰もがハワイ行きを希望するようになった。7

19世紀には、一世は日本に向けて年間150万ドルもの送金をしていた。1900年から1907年の間に送金額はさらに増えて、年間200万ドルに達した。一世による母国送金は、農村地帯にとっては主要外貨獲得源だった。8歴史学者アラン・モリヤマは、「移民による送金は、日本の輸出収入総額のほぼ2パーセントを占めることもあったほど」と指摘している。「日本への多額の送金」に加え、「海外に日本商品の市場をつくったこと」で、移民たちは明治時代の日本の近代化発展に多大なる貢献をしていたのである。9

日本からの移民増加の裏には、労働者斡旋業者の存在があった。彼らの宣伝は、たちまちのうちに大志を抱く若者たちの好奇心をとらえた。1906年、17歳だった沖縄県人永山セイチンもその一人だった。誰もが皆、ハワイ行きを話していたので、自分も行きたくなったのだ。10 しかし、永山をはじめ移民たちを待ち受けていたのは、彼らの期待とは全く異なる現実であった。

その3>>

注釈:
1. Moriyama、前掲書、18-19ページ。
2. Japan Weekly Mail、1884年12月20日付。詳細は、Ronald Takaki著、Strangers from a Different Shore (ボストン、1989)、43ページを参照。
3. Okahata、前掲書、93ページ。
4. 氏家キクジ、インタビュー。エスニック・スタディーズ・オーラル・ヒストリー・プロジェクト(ESOHP)、テープNo.7-1-1-79TR、及びテープNo.7-2-1-79TR。
5. 1885年から1894年までのいわゆる官約移民時代は、ハワイ政府と日本政府が日本人移民についての責任を負った機関をさす。1886年1月28日に東京で調印された日布移民渡航条約によってその責任は明らかにされている。
6. 比嘉トウデン、インタビュー。Ethnic Studies Oral History Project著、Uchinanchu: A History of Okinawans in Hawaii (ホノルル、1981)512ページ。
7. Moriyama、前掲書、26ページ。
8. 同24-25ページ。
9. 同166-167ページ。
10. 永山セイチン、インタビュー。Uchinanchu、467-68ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

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