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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 ―その9/9

その8>>

1969年、イサムは香川県高松市牟礼町(むれちょう)に住む、日本の黒御影石などに魅せられたのがきっかけで庵治石(あじいし)の産地であったことが住まいとアトリエを構える事にイサムの心を決定づけた。良きパートナーとして助手の和泉正敏氏を得て精力的に制作を始める。1986年、スライド・マントラを制作、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表として出品する。1987年レーガン大統領より「アメリカ国民芸術勲章」を受章。1988年、「勲三等瑞宝章」を授与される。

札幌のモエレ沼公園のランド・スケープの構想のプロジェクトが、1988年に決定してイサムは大喜びした。しかし、完成したモエレ沼公園を一度も見ることなくこの世を去ることになる。しかも同年であった。亡き後、モエレ沼公園は2004年に完成した。

香川の牟礼町で生まれた巨大な石の彫刻、「エナジー・ヴォイド」と名付けられた高さ3.6m 重さ17トンの作品。ドーナツ形を四角に少し変形させたような作品で、ドス黒く鈍い光を放っている。イサムの作品の中で一点を選ぶとしたら、この一点に尽きる。そこにはイサムのすべてが集約されている。抽象彫刻を始めた頃からそれらの兆しを見つけることができる。それは木の作品であれ、石の作品であれ、ポカッと穴の空いた作品が眼に付く、一体それらが何を意味していたのか?

高さ3.6m 重さ17トン。「エナジー・ヴォイド」、香川県牟礼町の「イサム・ノグチ庭園美術館」

分析してわかったことはイサムの幼年期に起因する。イサムは、子供の頃から自身が生まれて来たことにおいて疑問を持ち続けていた。イサムは、この世に生まれて来たくなかった。もう一度、母の母胎に戻りかった。それは子宮回帰にほかならない。そうした空虚な思いは死ぬまで消えることがなかった。晩年のこの「エナジー・ヴォイド」の作品へと完結することになる。「力」と「空」(くう)の意味したものは、「何もないところにこそ、力の源がある」ということを言いたかったのだろう。イサムが辿りついた世界であった。言い換えれば「無と有の合体の世界」とも言える。この作品には押し潰されそうな重圧感と霊気が漂っている。そこには、生と死の狭間、無と有の世界、暗黒と光、生命と宇宙など、森羅万象の世界が見えて来る。万物の根源が見て取れる。だからこそ何かが見る人に迫ってくる力を感じさせる。作品を眼の前にした時、大きな黒いリングの奥に「母胎」が見えて来る。また、反対の側から見ると、この世を通り抜けて、外界へと開かれた「宇宙」が見えて来る。これこそがイサムの世界であった。そうした二つの世界を彷徨っていた。母胎とこの世の狭間を・・・・・

イサムは、仕事を終えるといつもジャズのレコードを聴くのが日課であった。ジャズを聴きながら母の事も思い出していた。だが、イサムは最後まで母を恨んでいた。孤独という二文字は最後まで消えることはなかった。そして、敬愛する父(米次郎)の詩集本を手に取り朗読した。それは、「巡礼」と題した詩集本の中の瀬戸内海を詠った詩の一節だった。その美しい詩にイサムは感動して涙が溢れ出た。イサムは家の外に出て、夕焼け空を眺めながら、黄金色(こがねいろ)にきらきらと光る美しい大海原に身を任せて泳いだ、涙が止まらず大粒になってあふれ出た。あふれ出た涙は瀬戸内の海に同化した。・・・・・

イサムは、発注している作品を見るためパリに出向いた。日本に帰国する前に、ニューヨークに立ち寄り、そして、イサムはニューヨークで倒れた。しかも、イサムが彫刻家として出発した地で、皮肉にもゴールした地もニューヨークであった。イサムの孤独という名の人生のマラソンは終わった。凍り付くような寒い冬のニューヨークの大学病院の一室で息絶えた。死因は心不全であった。 (1988年12月30日に死去、享年84歳)

「イサムよ! 父、米次郎のもとで休むがいい、母の母胎に戻るがいい、イサムよ!無と化して、自由に宇宙を羽ばたくがいい、もう、何処にも孤独という時間は存在しないのだから・・・そう、何処にも・・・・・」

(完)

*本稿は日墨協会のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』148号(2011年5月)からの転載です。

© 2011 Koji Hirose

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