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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その15

>>その14

一世の家庭生活: 結婚

浦上栄二は年若い妻、絹代のサンフランシスコ到着を今か今かと待ちわびていた。1903年に渡米してから既に12年の歳月が流れ、この時、浦上は34歳になっていた。

「私も独身生活もあきあき為ましたです。」と彼は絹代に宛てて書いた。「終日働ひて帰ってきた所で待つ人も無くさみしひものです。」さらに率直に彼は訴えている。「長い夜の独りねもずいぶん長ひ間ですから何に付けても不辧此の上も無いです。今回は何お捨て置ひても貴女の呼び寄せの全力おそそぎ一日も早く工面さすから貴女も力お落させず待って居て下さい。(原文のまま)」1この手紙を書いた9ヶ月後に、やっと浦上は絹代を呼び寄せるだけの金を用意できたのである。

多くの一世は日本へ戻って妻を連れてくるだけの金銭的余裕はなく、日本の家族に自分の花嫁を見つけてもらっていた。栄二をはじめ殆どの一世が生まれた明治時代(1868-1911)は、「家」の存続が非常に重要視された。2したがって、結婚相手の選択はその家全体にかかわる重大事であった。

実際の見合いの手続きは、結婚相手本人の経歴、性格やその家柄などを細かく調べてからでないと始まらなかった。特に、姻戚に対しては、いざというとき金銭的援助を頼むことが多いため、両家の社会的、経済的地位は似通った場合が多かった。3一旦、嫁の名前が夫の戸籍に移ると法律上その結婚は有効となり、夫婦が一緒に暮らしているかどうかは問題にされなかった。

「日本ではそれがあたりまえだった。愛情ではなく家柄が大事なの」とある一世女性は回想したが、彼女の場合も両親によって結婚相手がきめられた。4実際、結婚の主目的は跡取りをつくることだった。単なる愛情からの結婚は、自分の利害、幸福を家のそれより優先することからむしろ不道徳と見なされた。

浦上栄二は絹代と太平洋を挟んで写真や手紙をやり取りした。1915年3月4日付けの手紙で栄二は絹代にアメリカ生活の心得を書いている。「今迄多くの婦人わ米国に居る人と結婚為て渡米為て居るが、或る者はその人と結婚為てはるばる渡米為たのでわ多く、その人の財産か或わ金の為め則ち米国に行けば金殿玉桜に住まう様な考へで来るから、ずいぶん世間にみぐるしき事おしでかす人も□では□です。(中略)決して米国に来て、らくお為ようなどと思ふてきてわいかんです。我々両人が共(に)かせぎ、大に奮闘、成功長ひ將来お待つ清春の身ですから。(原文のまま)」5

浦上栄二と絹代の交換写真(1915年頃)Gift of the Uragami Family, Japanese American National Museum (91.92.6)

絹代。Gift of the Uragami Family, Japanese American National Museum (91.92.5)

浦上は渡米した後、現実の生活に滅亡した写真花嫁の話を聞いていたのだろう。なかにはアメリカに来て初めて、自分の夫が手紙に書いてあったような成功者ではないと知る花嫁もいた。横山英代もその一人だった。「彼の職業は歯医者だということだったが、私が上陸すると、歯医者ではなく自動車の運転手だった。」6他にも、初めて会う夫が写真で見るよりずっと老けているので驚いた花嫁たちもいた。19歳でアメリカへ来たある女性は、船から降りた後、夫となる人が実は37歳と知ると、驚愕して再び船に戻って日本の家に帰りたくさえ思った。7

片道の切符涙で別れて来8

浦上栄二自身、絹代より15歳年上だったが、この2人の結婚は長く続いている。

「夫は妻おいたわり、妻は夫お助け大に活動為ましょう(原文のまま)」という手紙の一節のように、2人は助けあって生きてきたのだろう。91966年12月15日、友人や家族に囲まれる中、栄二と絹代は金婚式を祝った。1050年以上前の手紙のなかで栄二は絹代にこう約束していた。「...目出度く階老同けつのちぎりお結び、御前百まで私しゃ九十九迄、末長く連れそふ事となりました。」

浦上絹代は、1908年の日米紳士協定以降に渡米した何千もの日本人女性の一人であった。1910年までに一世女性はハワイ日系人口の3分の1に達し、アメリカ本土でも全体の12.6%になっていた。その後の10年間、女性はアメリカに入国する全日本人移民の30%を占めていた。その結果、1920年までにハワイ、アメリカ本土共に男女の割合はより釣り合いのとれたものになった。11

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注釈:
1.浦上栄二より絹代への1915年12月30日付書簡。全米日系人博物館所有。
2.日本の「家」については、Hiroshi Wagatsuma著、“Some Aspects of Changing Family in Contemporary Japan—Once Confucion, Now Fatherless?” Daedalus: Journal of American Aacademy of Arts and Sciences, Vol. 106, NO. 2, Spring, 1977, 181-210ページを参照。
3.一世の結婚については、Sylvia Yanagisako著、Transforming the Past(スタンフォード、1985)27-62ページを参照。
4.松岡マサミ、インタビュー。(1981年8月12日カリフォルニア州フォウラー)
5.浦上栄二より絹代への1915年3月4日付書簡。全米日系人博物館所有。
6.横山英代。伊藤一男著、「北米百年桜」247ページ。
7.平岡サキノ、インタビュー。(1981年7月9日カリフォルニア州フォウラー)
8.由紀子。伊藤一男著、「北米百年桜」313ページ。
9.浦上栄二より絹代への1915年3月4日付書簡。
10.“Mr. Scouting and Spouse Reach Golden Anniversary, ”「羅府新報」1966年12月15日号、3ページ。
11.Evelyn Nakano Glenn著、Issei, Nisei, War Bride: Three Generations of Japanese American Women in Domestic Service(フィラデルフィア、1986)31ページ。

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。 

© 1992 Japanese American National Museum

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