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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その5

>>その4

1909年日本人大ストライキ

アメリカ労働省長官は、1900年にハワイで起こった22件のストライキのうち、20件に日本人労働者が関与していたと報告している。その4年後、彼らはさらに強い組織力と団結力を発揮して、ワイパフのオアフ砂糖会社耕地において、約1,600人がストライキを行なった。1909年には、それをもはるかに上回る規模、組織力、期間の空前の日本人大ストライキが発生した。このストライキは、オアフ島内の主だった5つの耕地で、7,000人に上る労働者が、一世実業家、知識人、邦字新聞などの指示を得て、4ヶ月もの間継続した。

日本人労働者たちは、他国人労働者と同水準への賃上げをその要求の中心に挙げていた。もともと賃上げの必要性は「布哇日々新聞」の島田軍吉により提唱され、「日布時事」に掲載された田坂養吉や根来源之(ねごろ・もとゆき)弁護士による一連の記事でさらに声高に語られた。

例えば、根来は、ポルトガル人やプエルトリコ人労働者が月額22ドル50セント受け取り、一戸建て住宅を支給されているにもかかわらず、同じ内容の仕事をする日本人には月額18ドルと家畜小屋のような家しか与えられていないと指摘した。ハワイの砂糖産業が多大な利益を得ているのに、日本人はその恩恵を受けることもなく、かえって物価上昇によって悲惨な生活を送らざるをえなかったのである。1

邦字新聞は、賃上げの必要性という趣旨には同調したが、そのアプローチについてはそれぞれ異なった意見を唱えた。「日布時事」は、労働者の苦しみは団体交渉によってのみ解消されると主張した。一方で、「布哇新報」と「布哇日々新聞」は農園主と労働者の相違点は当事者の話し合いと歩み寄りによって解決できると説いた。「日布時事」は「布哇新報」を日本人労働者に対する裏切り者と糾弾し、逆に「布哇新報」は「日布時事」とその支持者を平和を乱す扇動家と反撃した。

この問題を話し合うために公開会議が開かれ、そこで増給期成会が設立された。指導人として、薬局経営者で後に「布哇報知」の創始者となった牧野金三郎が会長、カリフォルニア大学バークレー校法学部出身の根来源之が副会長、そして旅館経営者の山城松太郎が会計に選ばれた。そして、増給期成会は耕地経営者組合(Hawaii Sugar Planters' Association)に対し、低賃金体系の廃止、18ドルから最低でも22ドルへの賃上げ、それに直接会談を要求した。

1908年12月19日、増給期成会は耕地経営者組合書記に会談を求める書簡を送った。耕地主側が回答を引き延ばす間、相賀安太郎の「日布時事」は、社説を通じて劣悪な労働状態の非難を続け、牧野と根来は車で耕地から耕地を巡って、労働者に賃上げ要求書を提出するよう訴えた。2人は暴力は否定しながらも、労働者のストライキをする法的権利を説いた。

ある耕地の管理者は、牧野とその仲間を「耕地労働者を扇動しようとしている」と非難した。日本人社会の中でも、「布哇新報」は耕地経営者側の立場を取り、労働者たちが誠意を持って説得すれば、現実主義者の経営者達は皆が満足するような回答を出すはずだと主張した。2

その間にも、賃上げ運動は勢いを増していった。各地の耕地でも牧野等の指導をもとに、独自の増給期成会が結成された。そして、ハワイ、マウイ、カウアイ各島の日本人労働者は団結を約束した。さらに、各県人会,商業団体、職業団体などがこれに支持を表明するに至ったが、耕地経営者側は依然として増給期成会の要求を受け入れようとはしなかった。

1909年5月8日、とうとう日本人大ストライキが始まった。朝9時半に、アイエア耕地の1,500人の労働者が石油缶を打ち鳴らし、万歳三唱したのがその皮切りだった。ストライキ開始後、60を越える耕地経営者が一同に集まりスト破りの作戦を練った。彼らは、労働者の要求は断固として拒絶し、その間に生じる損害は分担する事で合意した。 また、耕地経営者組合の名でストライキ参加者を耕地内の住居から立ち退かせる命令をだした。

ワイパフ耕地では、日本人ストライキ参加者は一週間以内に仕事に戻るか、立ち退くか言い渡された。それに対し労働者たちは耕地内の住居を掃除し、管理人にそれまでの感謝の挨拶をして楽団の演奏に合わせ行進しながらキャンプをあとにした。カフク、ワイアルア、エワの各耕地でも、同様の命令が出され24時間の猶予を与えられた。一方、ワイマナロ耕地の労働者はストライキには突入しなかったものの、ストライキ参加者のために600ドルの寄附をした。

増給期成会では、ストライキをオアフ島だけに限り、他の島では仕事を続行し、ストライキ決行者のために金銭的援助を送るという方針を採った。日本人商人、知識人からも、食料、金銭、その他にも様々な援助が寄せられた。6月の末までに、耕地から立ち退きを命じられた5,000人に上る労働者とその家族がホノルルに集まり、宿、食事、医療などの便宜を受けた。3

このような熱烈なる支援の一方で、日本人社会の有力者の一部はストライキ反対、もしくは中立の立場をとった。上野尊一日本総領事は、ストライキ参加者を平和と調和を乱すという理由で非難し、彼らに穏便に行動し仕事へ戻るよう指示した。同様に、奥村多喜衛牧師も労働者に仕事に戻るようにと説いた。ホノルル商人の多くも、表向きは中立の立場を取っていた。

ストライキが長期化するにつれて、警察が弾圧を加えるようになった。保安官のウィリアム・ヘンリーは、「ハワイにいる日本人は、どうも虫が好かない。(中略)奴らは5千人のアメリカ軍がいるから大人しくしているだけだ。(中略)奴らは全く信用が置けないし、おまけにプライドばかり高いときている。我々の我慢ももはや限界に達している」4 と吐き捨てるように言った。

6月に入ると、牧野、根来、相賀、田坂といったストライキ指導者は、繰り返し嫌がらせを受けたり拘束されたりした。相賀一人だけで、実に10回以上も逮捕された。牧野は、逮捕されれば逮捕されるほど、日本人の団結は強くなると息巻いた。しかし、次第にストライキの資金も底をつくようになり、中国人、ハワイ人、韓国人、ポルトガル人などがスト破り要員として日本人の要求をはるかに上回る日給1ドル15セントで働き出すと、徐々に仕事に戻る者も現れた。

このような状況の中で、7月31日労働者代表は投票を行い、3ヶ月に及ぶストライキの終了を決定した。最終的に、このストライキは耕地経営者に200万ドルもの損害をあたえ、スト支持者も4万ドルを失った。牧野、相賀、山城、さらに新聞記者の河村敬太郎と田坂養吉は、「布哇新報」社長兼編集長の芝染太郎がストライキ参加者に刺された事件で、共謀の容疑を受け逮捕された。彼らは法廷で有罪判決を受け、禁固10ヶ月と罰金300ドルの刑を宣告された。しかし、奥村牧師を始め日本人社会指導者の尽力で、3ヶ月の獄中生活の末、釈放された。

自由となったストライキ指導者達は、支持者の万歳三唱に迎えられた。釈放を祝う夕食会の席で、相賀は彼らの闘いの意義を語った。「この度のストライキはアメリカ人(白人)との関係や日本人社会の調和を乱すといった問題も起こしたが、日本人労働者の奴隷のごとき不当な待遇を世に知らしめる重要な役割を果たしたのである。」5 短期的に見れば、ストライキはその要求を実現することなく挫折した。しかし、結局、数ヵ月後には耕地経営者は日本人労働者の賃金を1ヶ月18ドルから22ドルに引き上げ、出来高制、ボーナス制の導入とともに住居や衛生設備の改善も実行した。

その6>>

注釈
1. 根来源之著、「明治四十一、二年布哇邦人活躍史」(ホノルル、1915)より。詳しくは、Okahata、前掲書、173-174ページを参照。
2. 「布哇新報」1909年2月7日付け。詳しくは、Ernest Wakukawa著、A History of the Japanese People in Hawaii (ホノルル、1938) 175ページ参照。
3. Kotani、前掲書、31ページ。
4. Take Beekman and Allan Beekman共著、 “Hawaii's Great JapaneseStrike,”Pacific Citizen、 1960年12月23日号。または、Kotani、前掲書、32-33ページ。
5. 相賀安太郎著、「五十年間のハワイ回顧」(ホノルル、1953) 11-12ページ。または、Kimura、Issei: Japanese Immigrants in Hawaii、96ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」 (1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。 

© 1992 Japanese American National Museum

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