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ロサンゼルスに根付く、ウチナーンチュ・ジャーナリズム - その2

その1>>

アメリカでのウチナーンチュ・ジャーナリズムの先駆者は、おそらく、金城(かねしろ)武男さんだろう。

46年間手書きで新聞を発行してきた金城武男さん

「インターネットってなんですか?」コンピュータを持たない金城さんは、自らが発行する新聞「五大州」をオンライン化して欲しいという要望に対して、こう答えるほど、いわゆる「アナクロ」だ。それもそのはず、金城さんは、世界に散らばるウチナーンチュの動向を伝え、ウチナーンチュ社会を結びつけるよう願って始めた五大州を、コンピュータも使わず、46年間手書きで発行し続けている。

五大州という名前の由来は、沖縄移民の父と呼ばれた当山久三に由来する。当山久三は、日本本土からの移民に15年ほど遅れること、1900年に、ハワイに沖縄移民第一陣の27人を送り出すことに尽力した人物だ。当時の沖縄は、日本による沖縄併合の後、日本政府による不平等な政策に苦しみ、本土から沖縄に移り住んだ官僚による差別が絶えなかったという。25歳で小学校の校長となった当山久三は、本土から派遣された他校の校長に下等市民のような待遇を受けたという。こうしたことから、市民運動に参加、沖縄人の地位向上に尽くした。当山久三は、同胞の沖縄県人達に、海外への出稼ぎで成功を収め、故郷に錦を飾り、日本人に沖縄人は下等市民ではないと言うことを示すことを奨励した。

「いざ行かん 我らの家は五大州 誠一つの金武世界石」

これは、当山久三が1903年にハワイを訪れたときに詠んだ句だ。

当山久三の奨励した海外移民は沖縄社会に広まり、現在では、30万人もの沖縄人が世界に散らばっている。しかしながら、移民先の異国の土地の移民社会でも、しばし、沖縄人達は本土出身の日本人の差別を受けることがあったという。金城さんも、その一人。出身のハワイや現在住むロサンゼルスでも、差別の目を向けられたという。

金城さんにとって、「五大州」はそうした差別と戦う一つの道具として始まった。「五大州」で世界に散らばる沖縄人の成功を伝えることによって、沖縄人の尊厳を日本人に示したかったという。

「五大州を通して、沖縄人は沖縄から逃げてきたんじゃない。私たちは世界各地で成功を収めている、ということを示したかったんです」と88歳の出版者は柔和な表情には似つかない力強い言葉で語る。

ハワイ移民の両親のもと、1922年に生まれた金城さんはいわゆる帰米。小学校時代を親戚の住む金武村で過ごし、ハワイに14歳の時に戻ってきた。1938年にはロサンゼルスに移り住み、その3年後、日本軍が真珠湾を攻撃。フランクリン・D・ルーズベルト大統領の大統領令9066号により、アメリカ本土に住む日系人は各地の日系人強制収容所に送られた。金城さんもアーカンソー州ローワー市にある日本人強制収容所で高校卒業まで過ごすことになる。

その後移されたツール・レイクの強制所で、日記をつけ始めた。「何もやることがなかったんですよ。私は、趣味という物がなくって。タバコもやらないし、ギャンブルもしない、ゴルフも釣りも野球もやらない。だから、日々の生活を日記に書き始めたんです」と金城さんは語る。そして、この日常の様子を書き留めるという習慣が、現在の五大州の元となっている、という。

ツール・レイク強制収容所は、アメリカに忠誠を誓わない日系アメリカ人が多く送られた場所で、最も監視体制が厳しいことで知られた収容所だ。金城さんは、日記で、中には、毎朝、東の方向に向かって最敬礼をする収容者や、紀元節の日にも天皇への忠誠を示す収容者がいたことを綴っている。また、収容所では「監視と収容者の間で小競り合いが絶えなかった」という。

自らをアメリカ人である以前にウチナーンチュであることに誇りを持つ金城さんは、アメリカ陸軍が日系人の志願兵の募集をしに収容所にやってきた日を記憶している。これは第二次世界大戦中にいわゆる「二世部隊」と呼ばれ、日系人のみで編成された部隊だ。全収容所からおよそ800人が志願し、アメリカ陸軍史上、最も多くの勲章を受けた部隊の一つとして知られている。しかし、金城さんのその日の日記はアメリカ政府への不審が書き連ねられている。「アメリカ政府は我々日系人を必要の無いときには、収容所に送り、兵士が必要になると、戦争に行けという。いったい、これはどういうことなんだろうか」

終戦後、五大州の構想を練っていた金城さんは、生活を安定させるために、1949年、まず、ロサンゼルスに戻り、イチゴ農園で働き始め、後、造園業を開業した。そして、1964年、念願かなって、「五大州」を発行するに至る。

2月12日に発行されたその第一号の新聞では、「今を去る半世紀と14年前、最初の沖縄移民は雄志をいだいてハワイに渡航されて沖縄海外発展の開拓者となられたのであります・・・その子孫が五大州においてあらゆる分野で活躍し発展していることは、我々沖縄系人の誇りとするところあり、しかしながら、その民族発展がその地方在住の同胞にあまり知られていないことを残念に思うのであります・・・」という書き出しから始まり、五大州発刊に至るいきさつをつづっている。

88歳で今だ新聞を発行し続ける金城さんの一日は、新聞のネタ探しに費やされる。毎朝、6時半には起床する金城さんは、健康維持のため庭で体操を行った後、10紙以上の新聞やニュースレターに目を通し、気になる記事や次の新聞に載せたいような記事をスクラップしておく。さらに、北米沖縄県人会100年などの大きなイベントには金城さん自らが取材に、執筆にあたるという日々だ。

新聞製作は全て金城さんの手作業で行われる。スクラップしておいた記事を綺麗に切り取り、紙に貼り付ける。もし、オリジナルの記事が手に入らない場合は、書き写していく。驚くことに、金城さんは少なくとも4ページはある新聞製作を全て一人で行っている。「半日もあれば、新聞はできあがりますよ」と金城さんは語る。

「五大州」の発行部数は、最盛期の1000部から、今では180部まで減少した。 しかし、金城さんはいっこうに気にする様子はない。というのも、金城さんにとって、新聞発行は、収入を得るための手段ではなく、純粋に世界に散らばるウチナーンチュ社会に貢献することが目的だからだ。そのため、金城さんは五大州の購読者から切手代を集めるのみで、無料で配布している。

五大州の読者は、金城さんの沖縄へのこだわりが凝縮された新聞を心待ちにしている。

「金城さんが新聞を発行してくれるおかげで、世界のウチナーンチュ達がどんな生活をしているのか、知ることができます。こちらにいると、ウチナーンチュの動向を知るのはとても難しいですから」とオハイオ州からの購読者は、投稿欄でコメントしている。

また、手作りの新聞という部分で共感を持っている読者も少なくない。

「金城さんの手書きは時々読みにくいこともありますが、とても心に響きます。金城さんこそ、世界中のウチナーンチュを結びつける真の文化大使だと思います」とシカゴの読者は投稿欄で金城さんにエールを送っている。

健康には人一倍気を遣っている金城さんだが、去年、体調を崩し手術を行ったことで、一度は、新聞をやめようと思ったこともあったという。切手代も全て返金した金城さんだったが、それでも寄付金や切手代が送られ続けてきた。「もうやめようと思っていたんですが、みなさんが私の新聞を支えていてくれることを思うと、廃刊するのは失礼にあたるかな、と思い直しました」金城さんは新聞発行を継続することにした。

その3 >>

© 2010 Ayako Mie

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