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シカゴの声

広島 -その3

*この話は、シカゴ在住の増岡幸子さんの広島での被爆体験のスピーチを書き下ろしたもので、先週のストーリーからの続きです。

>>その2

何度か収容所にも行きましたけど、その惨状は目を覆うばかりでした。手当てなど行き届く筈もなく、焼けただれた所へ蠅が止まり卵を産みつけると翌日にはそれが蛆となり日を経たずして体中が蛆だらけになってしまいます。が、自分ではどうする事も出来ず、そういう事が原因で亡くなられた方も多いと思います。

皆さん水を欲しがられるのですが、火傷には水を飲むと駄目だとか。どんなに喉が渇いても水の飲めない苦しさは如何ばかりだったでしょう。「水を下さい。水を下さい」と悲痛な叫び声を上げられた方々の、切ないその叫び声が今も耳に残っております。

ただ、もう寿命が尽きると思われる方には、水をあげておられました。「ああおいしい」と言いながら飲まれるのですよね。ところが本当に飲まれて間もなく息を引き取られるのです。

ひどい火傷を負いながら、医療設備なども無く、ドクター等いません。手当てを受ける事も出来ず、沢山の人々が無くなってゆかれました。最もある一部では治療が行われていたと、後で聞きましたけど。

親戚の女の方のことですが、自力でやっと家にたどり着き、その後は動く事も出来ずに寝たきりでしたが、お母さんが毎日体の蛆をピンセットで一匹ずつ取り除いておられました。また、火傷のお薬なども付けておられたのでしょう。とても助からないだろうと思われる程の重態でしたが、元気になられ、被爆後何十年も生きられました。顔にはかなりひどいケロイドが残っていましたけど、結婚もされました。

ですから手当てが行き届いていましたら、もっともっと沢山の方々が生きる事ができたのではないかと思います。何分にもまだ戦争中でしたからねぇ。

私の同級のある方は、顔に火傷を負い少しケロイドが残っています。原爆でお父様が亡くなられましたので、二人の弟さん達を大学へ行かせてあげる為、犠牲になられ一生結婚されませんでした。

原爆乙女の事をご存じでしょうか。若い女の子達で顔などにひどいケロイドのある二十五人の方が、アメリカから招かれて治療を受けられました。それはひどい顔で、小さい子供など、恐がって顔をそむける程でした。顔にケロイドがあるけれど一応健康に過ごされ、社会にも出ておられましたけど、若い女の方の事、心の傷はどんなにか大きかった事と思います。

また、若いお母さんからお聞きしたことですけど、小さいお子さんが家の下敷きになり、女の力では、どうする事も出来ないので、側を通られる人々に助けを求めても、皆さん自分の事で精一杯。誰一人手を貸して下さる方は無かったそうです。その内、火が近くまで迫ってきたので「何とかちゃんごめんね」と云って、もう一人の幼いお子さんを連れて、立ち去ろうとすると「お母ちゃんのばか」と言ったその子の声が、今も耳から離れませんと涙ながらに話されました。生きているのに猛火に襲われ焼き殺されなければならない我が子を残して逃げなければならないお母さんもつらかったでしょうけれど、残されたお子さんもどんなにか苦しかった事でしょう。でもそういう目にあわれた人は、数知れない程だと思います。

6日には家にはいられなくて被爆されなかったご近所のある方が、「私は皆さんの連絡係になりましょう」とおっしゃり、焼け跡へ小さな小屋を建て、住んでおられました。ところが9月の終わり頃だったか10月頃だったか、はっきりとは覚えていないのですが、体に不調を覚えられました。が、お医者へ行く術もなく、数日の内に亡くなられました。今思いますのに、放射能を吸われたのが、原因ではないかと思われます。

放射能と云いますと、私も沢山吸っておりますし、白血球は通常の方の半分以下しかありません。いつ発病してもおかしくない状態にあります。

一昨々年日本へ行きました折にお聞きした話なのですが、その方は私より四才位若い男の方です。原爆でご両親、ご兄弟を亡くされ一人取り残された俗に云う戦災孤児になられたのです。でも幸いにもおじさんのお宅に引き取られ、そこには女のお子さん三人だったので兄妹同様に育てていただかれました。今は経済的にも家庭的にも恵まれ幸せに暮らしていらっしゃるのですが、孤児になった時の、あの淋しさ、やるせなかった思いは何十年経った今も忘れる事は出来ないといわれました。「こんな事は話しても誰にも解ってはもらえない事なので、今まで一度も口にした事は無いけれど、貴女なら解ってもらえると思い、今始めて話したのだ」と言われました。その傷跡はどんなにか大きく深いものなのですよね。

原爆が落とされました時の様子は、去る日ニューヨーク市がテロに襲われました時の事を思い出して頂くと少しは解っていただけるのではないでしょうか。と言いますのは、ニューヨークの場合は市のほんの一部でしたが、広島の場合はあのような状態が全市、つまりニューヨークの何百倍、いえ何千倍と云う広さだったのです。勿論そこには戦争中と平和時という違いはありますけれど。

皆さん広島の原爆資料館の事をご存じでしょうか。あそこに展示してありますのは、ほんの一部の事で、被爆の大きさ、悲惨さを知るには余りにも乏しいと思います。

この時の惨状を言い表すには、何百万語をもってしても不可能でしょう。これらの事は私の脳裏から消え去ることはありません。

現在も後遺症で苦しんでいらっしゃる沢山の方々の事を思います時、胸が痛みます。戦争を繰り返さない、平和な世の中になりますよう切に願っております。

日本は敗戦国になりましたけれど、戦争が終わった時の、あの心の安らぎを忘れる事は出来ません。焼け跡にはバラックを建てる槌音が、毎日響き渡り、祖国復興の息吹きが、生き生き脈打っていました。

75年は草木も生えないという噂が立っておりましたけど、秋には近くの公園で、被爆したにもかかわらず根が生きていたのでしょうね、桜の花の返り咲くのを見ることが出来ました。

皆様、世界平和の為の努力を惜しまないで下さいね。

ご静聴ありがとうございました。

* 本稿はシカゴ日系人歴史協会 (Chicago Japanese American Historical Society) のオンラインマガジン「Voices of Chicago」に掲載された英訳の原本です。

© 2010 Sachiko Masuoka

a-bomb survivor hibakusha hiroshima war

このシリーズについて

このシリーズに掲載されているストーリーは、もともとシカゴ日系人歴史協会のオンラインジャーナル、「シカゴの声」に掲載されたものです。シカゴ日系人歴史協会は、2004年12月からディスカバー・ニッケイに参加しています。

シカゴの声は、シカゴに住む日系人の体験を綴った私語りのコレクションです。シカゴの日系コミュニティは、第3波までの移民およびその子孫で構成されています。最初の波は、1899年のシカゴ万国博覧会の頃に到着した約300人でした。第2波のグループは最多の3万人から成り、第二次大戦後、強制収容所から直接シカゴに移住して来ました。彼らは「最定住者」と呼ばれ、社会奉仕団体や仏教またはキリスト教会、中小企業周辺でコミュニティを形成していきました。第3波はさらに近年となり、1980年代前半に到着した日本人のグループです。彼らは芸術家や学生で、その後、シカゴに留まりました。4番目のグループは移民ではありませんが、企業幹部の日本人とその家族で、シカゴに長期滞在し、場合により永住しています。

シカゴは、いつの時代も人々が安らぎを得られる場所であり、民族的に多様な人々が共に住み、働く町でした。「シカゴの声」は、先述の4グループそれぞれのメンバーのストーリーと、彼らがどのようにこのモザイク(寄せ集め)都市に適応していったかを伝えています。

シカゴ日系人歴史協会のウェブサイトはこちら>>