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日系アメリカ移民一世の新聞と文学 -その2

>>その1

2.移民地の「国内刊行物」

さて、こうした言説空間の誕生にともなって、移民地における文学が本格的にスタートするわけだが、その前に以降の展開の前提となる事実を補足しておかねばならない。それは、移民地において流通していた新聞は、実のところ移民地で出されていたものだけではなかったということである。移民ジャーナリズムに関する研究は比較的進んでいるが、この面に関してはこれまで不思議と顧みられていない。資料1をごらんいただきたい。

資料1 小野五車堂広告(部分)『日米』 1913年11月12日、2面

これは小野五車堂というサンフランシスコの日本書店の広告である。北海道から宮崎、鹿児島さらには朝鮮、満州、台湾の新聞名をずらりと並べたリストを提示しながら、小野五車堂はそれを無料で顧客の縦覧に供すると言う。しかもそれだけではない。「猶遠方の顧客や入用の方には三ヶ月以上のご注文ならばお望みの新聞紙取次ぎいたします」。つまりそれを望めば、小野五車堂の顧客たちは植民地帝国日本の各地域で刊行されていた代表紙を定期購読できたということである。さらに付け加えるなら、移民地では太平洋を結んで形成された流通網を利用して大量の日本の書籍や雑誌もまた輸送され販売されていた1。一世の文学を考えるためには、こうした環境を考慮に入れることが非常に重要である2。新聞の例もそうだが、日本語の情報に飢えた移民たちは、雑誌や単行本、はては新聞の切り抜きまで、貪欲に輸入を続けていたのである。

読み耽った雑誌類は、太陽、中央公論、新潮、早稲田文学、文芸倶楽部、文章世界といったようなもので、これは本屋から送ってもらうことにしていた。これら雑誌に現れた日本の思想界は明けてもくれても自然主義の論議であった。長谷川天渓、島村抱月、田山花袋、岩野泡鳴などと言った論客の一字一句が新鮮味をもって味われた。島崎藤村の「春」が読売新聞に出た。竹島君の妻君が一か月分ずつそれを竹島君に送って来たのを借りてきて読むのが何よりの楽しみであった。真山青果という新人の作に驚き、正宗白鳥の「何処へ」とか「泥人形」などを読みつつ祖国のはげしい変遷を思いに浮かべた。 
                                                   (翁久允「わが一生 海のかなた」3

引用は、太平洋岸の移民コミュニティで積極的な文学活動を行い、帰国後も『週刊朝日』の編集者などとして活躍した翁久允の自伝小説の一節からである。文中に現れる作家名や作品名からもわかるとおり、翁が振り返っているのは明治末のようすである。

ここから読み取ることができるのは、ふたつの事柄である。ひとつは、彼が大量の「日本文学」を取り寄せて読んでいたこと。もうひとつは、「祖国」とその文学に対して抱いていた彼の渇望である。異郷の文学青年たちは、取り寄せた雑誌などの情報をもとに、海の彼方の故国の文壇に思いをはせていた。一世の文学は、隔たりと欠乏とによってかき立てられるふるさとの文化への欲望と、それを癒すべく大量に運び込まれる日本の文物、そして身をもって経験しつつある異国の社会との葛藤とから生まれてくる。

3.移民新聞と日本語文学──『新世界』の場合

本論文で言及できる一世の文学には限りがあるため、ここでは新聞掲載作品を中心に分析を限定しておきたい。取り上げるのは『新世界』という邦字紙である。『新世界』は『日米』と並ぶ第二次大戦前のサンフランシスコの有力紙である。創刊は1894年、最初の活字新聞であった。以後一時的な廃刊や合併を経ながら、現在まで続くサンフランシスコの日本語日刊紙二紙体制の基礎を作った。サンフランシスコという日系移民社会の中心地のひとつで刊行された有力紙であり、比較的初期から継続的に原紙が残されているという点から、十分に検討する価値があるといってよいだろう。ただし、サンフランシスコ大震災(1906年)や第二次大戦下の強制収容という厳しい経験を経た結果、やはり欠号も多い。残存している部分でしかも現在調査が終了した範囲(1896~1910)という限定的な報告とならざるをえないが、それでも日系一世の文学の出発期のようすの幾分かは見えてくるだろう。以下、詩歌と小説に分けて概観する。

詩歌

日本国内の新聞と同様に、『新世界』にも数多くの詩歌が掲載された。編集側からすれば欄の大きさも小さくてすみ、作者たちの側からいっても、小説よりは気軽に作れ、また歌会、句会といった仲間が集まる楽しみとも結びついた詩作は、もっとも身近な文芸だった。これまでの研究においても、一世たちの文学といえば詩作が挙げられることが多い4

ジャンルの交代も近代詩史のそれとほぼ相似形であり、ほとんど初期にのみ掲載がみられる漢文、1900年代に流行しその後次第に衰えていく新体詩、継続的に欄を確保している和歌、俳句といった構成だ。

そのいちいちについて取り上げていく余裕はないが、移民文学という観点から興味深いと思われるところを数点見ておきたい。まずは、内容的な変遷である。古典的なジャンルであるほど、創作の際、内容面・形式面での制約が大きい。近代の和歌や俳句が、それ以前の伝習や固定化した修辞からいかに離陸するかを課題としていたことは改めて確認するまでもないだろう。移民たちの詩作においてもこの傾向は同様だった。初期の作品は形骸化した紋切り型の表現をそのまま援用した作品が多い。このため、サンフランシスコに身を置きながら、幻想の日本--しかも古典的な--を詠むという事態が発生している。(以下『新世界』からの引用は日付のみ記す。/は原文改行)

春雨や曙近う桜ちる        村井非物  (1900・4・3)
あけはなつ座敷匂ふや土用干    葡軒    (1900・9・8)

むろんサンフランシスコに座敷はない。こうした傾向から徐々に当地詠が増えていく。

テキサスの大平原や稲光り     背味丸
なそもかく淋しさまさる/かりの宿/カリホルニアの/秋の夕暮れ
                      桑港 なかむら (以上 1906・11・3)

伊藤一男『北米百年桜』『続・北米百年桜』5が数多く紹介し、今日一世文学の代表のひとつとして考えられる--普通の生活者であった人々の生の声を伝えるとされる--和歌・俳句は、この変化が起こって以降のものを指している。だがそれよりも前、異郷において日本の風物を、あたかもそれがいまだ眼前にあるかのように詠む数多くの作品が存在していたのである。

詩歌が身軽に反応してみせる時事的な出来事も興味深い。たとえば「天長節の払暁金門公園の苺が岡に登り晴天を遙拝して」の詞書を持つ藤原正之の歌(1896・11・5)。

大君のましますかたをふし拝み/御世なか〃れと祈る今日かな
うちよりて声かる〃まで君か代を/うたひことふ〔ママ〕くけふそうれしき

いずれも、大日本帝国国民の重要な祝日であった天長節(天皇誕生日)に四千浬先の天皇の治世を言祝いだ歌である。また公的な歴史には登場しない移民たちの生活の裏面や、感情などが残されているのも面白い。

御主人のひかる頭におされてか/行燈くらき翠月の軒
喰に行く料理はよしやまずくとも/おちさの世辞を菊水の客
排斥をやるなら今のうちですぞ/やがては国を貰ひますから

前者二首は1900年8月11日の投書欄に寄せられた「桑港の五料理店」と題する狂歌。署名は珍々亭とある。五首からなり、ここに紹介した二首のようにそれぞれの店名(翠月、菊水など)を読み込んでいる。後者は松嶺子「狂歌七首 排斥問題」(1908・2・11)。太平洋沿岸で徐々に高まりつつあった日本人排斥運動に対する、感情的な反発の歌である。こうした直截的な反応やナショナリズムの表現は、アメリカ社会のなかで協調して生きる道を選択していったこのあとの日系アメリカ人の歴史からは消されがちである。

その3 >>

注釈
1. この点は日本書店論として別稿を用意する予定である。

2. この点で藤沢全『日系文学の研究』(大学教育社、1985年4月)の示した次の立場は再検討されるべきと考える。「一世の文学は、こうした範疇の作品〔永井荷風、田村松魚、有島武郎、正宗白鳥〕を排除し、現にアメリカ側に存在する条件においてのみ把握しうる文学の世界であって、当然のことながら、日本人(一世)の移住史、彼等の生活史、精神史、文化史などと密着。むしろ現地でのマスメディアの発達に即応せずにはおかなかった」(46頁)。

3. 『翁久允全集』第二巻(翁久允全集刊行会、1972年2月)、39頁。

4. たとえば植木照代、ゲイル・K・佐藤他著『日系アメリカ文学 三世代の軌跡を読む』(創元社、1997年5月)所収の植木「日系アメリカ人の歴史と文学」およびSato. "Issei Voices and Visions."など。

5. 伊藤一男『北米百年桜』(北米百年桜実行委員会、シアトル、1969年9月)、同『続・北米百年桜』(北米百年桜実行委員会、シアトル、1972年4月)。 

※ 本論文は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校において客員研究員(文部科学省在外研究員)として行った研究の一部である。また本研究は、明治期の文学青年に関する研究プロジェクトを構成する一部であり、これに関しては学術振興会科学研究費助成金(課題番号15720031)の助成をうけている。

* 『日本文学』第53巻第11号(No.617), 2004年11月,pp.23-34に掲載。

© 2004 Yoshitaka Hibi

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