ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

日系アメリカ移民一世の新聞と文学 -その3

>>その2

小説

別頁資料2は『新世界』掲載の小説リストである。まず指摘したいことは、サンフランシスコ大地震直後のしばらくをのぞき、現存する号からうかがうかぎり、紙面にはかならず何らかの小説か講談、あるいは落語が掲載されていたという事実である。しかも、掲載された作品の顔ぶれが興味深い。長短篇入り交じり、リストに記号で分けて表示したとおり、作者も日本国内の作家から北米在住の移民まで多岐にわたっている。

移民地の日本語文学空間を構成したこうした複雑なありさまは、これまでの研究では十分に意識されてこなかったと言わねばならない。多くの論者が初期の新聞・雑誌に掲載された小説の存在を指摘はしてきたものの、その具体的なあり方まで取り上げる事はなく、一世の移民小説といえば、このあと1910年前後に登場する翁久允らの活動に一足飛びに飛んでしまっていたからである1

その特徴を整理すれば、第一に、日本語新聞に掲載された作品は、実際には(1)日本国内の作品の転載と、(2)一時的に滞在した内地の文学者の作品、および(3)移民によるオリジナル作品の掲載によって構成されていたという事実をまずは挙げておきたい。リストの例でいえば、(1)として江見水蔭、広津柳浪、松居松葉、真山青果、伊原青々園らの名前を見ることができる。(2)としては佐藤迷羊、田村松魚など主に日本で活動したが米国にも足跡を残した作家たちの名前が登場する。(3)の分類に出てくる名前は、ほとんどの日本文学研究者にはなじみのない名前ばかりだろう。

第二に、これらの三区分に内容面を加味して考えると、大きく言って転載される日本の作品は通俗的なものが選ばれ、一時的滞在者とオリジナル作品はやや芸術指向のものが多いという点が指摘できる。『新世界』の一般読者たちに受けがよいのは内地の通俗小説や歴史小説、講談、落語であり、一方、自分たちで小説を書くほどに文学趣味を持っていた移民たちは、より高踏的な志向を保持していたといえよう。実際、「桑港書林通の談によれば、売行最も宜しきは絵画入りの人情小説」2だったと言われており、文学空間の構成員たちの質的な異なりに注意を払わねばならない。

この点に関していえば、移民たちの手によるオリジナル作品(小説)の登場時期は一般に考えられていた以上に早く、かつ継続的であるということも第三に指摘しておきたい。リストにあるように、1900年前後にはすでに天外居士、せつけい生、浮沈木ら複数の作者たちがそれぞれに短篇を寄稿している。30回を超える連載も数本存在し、なこそ「ふみほご」などは99回の連載でなおも未完に終わっている。これまで日系移民による最初の長篇小説は、翁久允の「悪の日影」(『日米』1915年6月3日~9月15日)とされてきたから3、この点にも修正を加えねばなるまい4

以上のような特徴を、〈連載〉という観点から眺め直してみよう。連載小説の機能は、第一義的には物語のもつ魅力--続きを読みたい、という--を利用し、読者を継続的にその新聞につなぎ止めるところにある。この点においては移民新聞も変わらない。ただ、移民地において問題となるのは、適切な書き手がいないということだ。新聞連載、しかも長篇となればかなりの力量がなければ書き通せない。そこで移民新聞がとった戦略が日本内地の小説の転載--おそらくは無断の5--である。判明している初出および単行本の刊行時期をリストに注記したが、いずれもオリジナルの発表から転載までの時間差がほとんどないことにも注目したい。松居松葉の「山賊芸妓」にいたっては、『万朝報』の連載中にすでに『新世界』で「連載」が始まっている。松葉の原稿が北米まで回付されたことは想定しにくく、『万朝報』からそのまま転載したと考えるほうが自然だろう。

田村松魚など(2)のタイプの作者や、(3)の移民地の作者の作品が手に入った場合、編集部は積極的にそれを掲載している印象がある。読者の反応があらかじめ読める通俗ものの転載と、より自分たちに身近な作者による身近な題材の作品との双方をそれぞれ評価して用いていたと考えられる。浮沈木が連載した「教育小説 只つた一文字」の冒頭には、「最もサンフランシスコ臭き小説との所望」によるという作者の弁がある(1899年11月7日、3面)。移民地の読者により近い作品をという編集部のねらいは、移民地の作者たちに継続的な発表の〈場〉を提供するという結果をもたらした。北米の移民社会においては単行本や雑誌はさほど発達しなかったため、新聞が移民地の第一のメディアである6。一世文学の生成と維持に、新聞連載が果たした役割は大きいといわねばなるまい。

その4>>

注釈
1. 一世文学に関しては以下を参照。前掲藤沢『日系文学の研究』、前掲植木ほか『日系アメリカ文学 三世代の軌跡を読む』、エレイン・H・キム著、植木照代他訳『アジア系アメリカ文学-作品とその社会的枠組-』(世界思想社、2002年9月)、篠田左多江「解説 アメリカの日系日本語文学-文芸雑誌を中心に-」(篠田左多江・山本岩夫『日系アメリカ文学雑誌研究』不二出版、1998年12月)。翁久允に関しては、中郷芙美子「「移民地文芸」の先駆者翁久允の創作活動-「文学会」の創設から『移植樹』まで」(『立命館言語文化研究』3巻6号、1992年3月)、同「翁久允移民地文芸の特徴-「生活」と「思想」について-」(『立命館言語文化研究』4巻6号、1993年3月)、山本岩夫「翁久允と『移民地文芸』論」ほかが収録された『立命館言語文化研究』(5巻5~6号、1994年2月)の「翁久允と移民地文芸」特集がある。

2. 肥峰「絵画と小説」(『新世界』1907年1月29日)、1面。

3. 前掲中郷「翁久允移民地文芸の特徴」は「日本語新聞史上初の長編小説「悪の日影」」(50頁)としている。

4. 移民地在住の作者による長篇小説としては、保坂帰一『吾輩の見たる亜米利加』(上編:有文堂、1913年1月、下編:日米出版協会、1914年4月)もある。夏目漱石「吾輩は猫である」の続編の形式で書かれている。日比「漱石の「猫」の見たアメリカ-日系移民一世の日本語文学-」(筑波大学文化批評研究会編集・刊行『〈翻訳〉の圏域』2004年2月)を参照。

5. 稗田菫平『筆魂・翁久允の生涯』(桂書房、一九九四年九月)も、一九一六年頃を指しつつ「当時の在米邦字新聞の文芸面の実情はというと、日本での知名な新聞が連載している小説を勝手に盗載しているといった結末〔マ マ〕であったようだ」(87頁)としている。

6. 「今日〔1940年ごろ〕に於ても在米邦人社会の刊行物は、その大半いなその殆んどは新聞と云つて差支へなく、他は寥々たる単行本、雑誌乃至団体に所属する機関誌的刊行物があるに過ぎない」(前 掲『在米日本人史』505頁)。

資料2>>

※ 本論文は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校において客員研究員(文部科学省在外研究員)として行った研究の一部である。また本研究は、明治期の文学青年に関する研究プロジェクトを構成する一部であり、これに関しては学術振興会科学研究費助成金(課題番号15720031)の助成をうけている。

* 『日本文学』第53巻第11号(No.617), 2004年11月,pp.23-34に掲載。

© 2004 Yoshitaka Hibi

issei newspaper NikkeiMedia san francisco shin-sekai shinonome