ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/7/1/hiroshima-story/

広島 -その2

*この話は、シカゴ在住の増岡幸子さんの広島での被爆体験のスピーチを書き下ろしたもので、先週のストーリーからの続きです。

>>その1

その夜(つまり7日の夜)遅くに帰ってきました母より、妹の死を知らされました。14才の妹は、中学校の校庭に並んでいて被爆しました。その中学校は爆心地の近くにありました。ピカッと光ると、周りは真っ暗になり、どうしようかと思ったところ、再び明るくなった時にはまわりに皆さんがおられて良かったと思ったそうです。

しかしその時には、着ている服が燃えていて、手で消そうと思っても消えることはなく、服は全部焼けてしまい、火を被った手の皮膚は焼けただれ、皮はぶら下がり、辛うじてパンティだけが焼けずに妹の体に残っていました。光線が後ろから当たったのでしょう。顔は火傷せず、きれいだったそうです。

そんな体でも、家々の焼けている中を歩いて我が家まで帰ってきたのです。もちろん家は焼けてありません。当時は救急袋といいまして、怪我をした時の手当て用品とか身元を証明する物等、大切な物を入れた袋を皆持っていました。その袋を大事そうに皮膚のぶら下がった指先に引っ掛けて持っていたそうです。パンティまで焼けていたら、恥ずかしくて歩くことは出来ず、猛火の襲って来る中、そこにうずくまってしまったのではないでしょうか。

疎開荷物を運んでいました母は、爆心地のかなり近くで被爆しました。髪の毛が一瞬逆立ったそうです。怖い目に会うと髪の毛が逆立つのだそうですね。髪の毛が立ったままなので持っていた包帯で、こう鉢巻のようにくくったとの事。黒い雨が降り、寒かったそうです。

母もまた、辺り一面燃えている中を家の方へと急ぎました。家の近くまで戻ってきますと、ご近所の方から、妹が近くの神社の前に立っていたと知らされ、急いで行くと、今度は他の方から百合ちゃん(妹)が神社の前に座っていたと知らされました。妹は、その僅かの間でも立っているのが困難な状態だったと思われます。母がたどり着いた時には、もう救援に来たトラックに乗せられるところでした。でも全身火傷を負っているので持つところがありません。唯一焼け残っていた両脇の下へ手を入れて、トラックの人が引き上げ、パンティの残っているお尻を、母が押し上げてやっとトラックへ乗せる事が出来たそうです。

あの混乱の中、奇しくも妹と母は逢う事が出来たのです。母の到着がほんの少しでも遅かったら、トラックは行ってしまい、妹とは永遠に逢う事は出来なかったのです。

二人は収容所となっていました郊外の学校の講堂へ運ばれました。収容所といいますのは、郊外のお寺とか学校の講堂などがあてられていました。そこにはご近所の方々が衣類や布団とか、色々な物を寄附されておりました。

寒い寒いと言う方が多い中、妹は寒がる事もなくほとんど眠っていたそうです。時に目を覚まし、「お風呂が沸いたの?」と聞いたとの事。多分お風呂に入ってさっぱりしたかったのでしょう。また目を覚まし、「もうお家には帰らないでここにいたい」と言ったそうです。もうその時には動くだけの体力も気力も無かったのだと思います。「痛いの」と聞くと「痛くない」と答えたそうです。多分痛みを感じる神経は麻痺していたのでしょう。

母が、靴を脱がしてあげようとしたところ、それは靴ではなく、靴は焼けて無くなり、足も焼け、皮はぶら下がり赤みになったところへ砂ぼこりがつき、黒く汚れて靴のように見えていたのです。そんな足で、どんな思いで歩いていたのかしらと思いますと、胸が張りさけそうで涙がこぼれます。

朝から何を食べるでもなく飲む事もなく、夜になってやっと頂いた缶詰のミカンを口に入れてあげると、「ホンの一口だけど美味しい」と言って食べたそうです。その一口のミカンは、妹にとりましてこの世で最後の食べ物になったわけです。

母は他の方々にも食べさせてあげたり、一晩中一睡もしないで皆さんのお世話をさせて頂いたそうです。

翌日の朝6時頃、「他の家族を探す為に出かけるから」と声をかけますと、妹は快く頷いたそうです。でも幸いな事に母が出かける寸前に息を引き取りました。出かけた後に息を引き取るような事になりましたら、どんなにか心残りになった事でしょう。

「眠っている間は、痛みを感じないで済むと思い、話しかけなかったけど、こんなに早く亡くなるのだったら、もっといろいろの事を話せば良かったのに」と、母はとても悔やみました。

死体は校庭に積み上げ、ガソリンをかけて焼かれます。(つまりそんなに沢山の人が次々と亡くなると云うわけです。)お骨など取りようもありませんので、母は、妹の髪の毛と爪を切って形見として持ち帰りました。

6才の弟は、誰かに付いて逃げることが出来たのか、家の下敷きになったのかわかりませんでした。毎日焼け跡に行きましたけど、何日経っても熱くて手を付ける事ができませんでした。収容所も尋ねて回りました。

今日は初七日という日。「弟が見つかると良いけど」と思いつつ、その日もまた焼け跡へ行きますと、何一つ取り除かなかったのに、焼け瓦の上に黒こげの死体があるのが目に止まりました。何だか大きく見えて弟ではないように思えたのですが、そばへ行ってうつ伏せになっているのを起こしてみますと、お腹の辺りに、弟がその日「これを着たい」と言って着たお気に入りのシャツが、ほんの少し手の平の半分位焼け残っておりました。

当時は、お葬式なんて出来る状態ではありませんでしたので、近くから焼けトタンを拾って来て、その上に遺体を置き、少し離れた所に壊れたけれど焼けていない家々がありましたので、そこから板切れを拾って来て積み上げて焼きました。黒こげだったので余り時間もかからずに焼く事が出来ました。

お骨を入れる物が無かったので、近くのセトモノ屋さんの倉庫と思しき焼け跡から焼け残った小さなきれいな蓋物を拾って来て、その中に入れました。

その3>>

* 本稿はシカゴ日系人歴史協会 (Chicago Japanese American Historical Society) のオンラインマガジン「Voices of Chicago」に掲載された英訳の原本です。

© 2010 Sachiko Masuoka

被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 戦争
このシリーズについて

このシリーズに掲載されているストーリーは、もともとシカゴ日系人歴史協会のオンラインジャーナル、「シカゴの声」に掲載されたものです。シカゴ日系人歴史協会は、2004年12月からディスカバー・ニッケイに参加しています。

シカゴの声は、シカゴに住む日系人の体験を綴った私語りのコレクションです。シカゴの日系コミュニティは、第3波までの移民およびその子孫で構成されています。最初の波は、1899年のシカゴ万国博覧会の頃に到着した約300人でした。第2波のグループは最多の3万人から成り、第二次大戦後、強制収容所から直接シカゴに移住して来ました。彼らは「最定住者」と呼ばれ、社会奉仕団体や仏教またはキリスト教会、中小企業周辺でコミュニティを形成していきました。第3波はさらに近年となり、1980年代前半に到着した日本人のグループです。彼らは芸術家や学生で、その後、シカゴに留まりました。4番目のグループは移民ではありませんが、企業幹部の日本人とその家族で、シカゴに長期滞在し、場合により永住しています。

シカゴは、いつの時代も人々が安らぎを得られる場所であり、民族的に多様な人々が共に住み、働く町でした。「シカゴの声」は、先述の4グループそれぞれのメンバーのストーリーと、彼らがどのようにこのモザイク(寄せ集め)都市に適応していったかを伝えています。

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執筆者について

広島県出身の被爆者。日系アメリカ人二世と見合い結婚をし、1962年にアメリカ、シカゴへ移住、二人の子供をもうけた。現在は、そよ風コーラスグループ、シカゴ広島県人会といったグループに所属している。彼女の作る蒸かし饅頭は、どれも一寸違わぬ大きさ形をしており、シカゴの日系コミュニティの中で良く知られている。2009年の新年会では1000個ものお饅頭を作った。

(2010年6月 更新)

 

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