はじめに
2010年2月27日より、全米日系人博物館は、「織りなる様々な人生:ハワイのプランテーションでの日本人移民の服装」(Textured Lives)と題して、バーバラ・カワカミ氏のリサーチをもとにした特別展を開催しています。この展示のオープニングイベントでは、歌手アリソン・アラカワ氏が、ハワイの一世女性によるプランテーション体験から生み出された日系アメリカ人民謡ともいえる「ホレホレ節」を披露してくれました。
「ホレホレ節」は、日本語の「節」という言葉と、刈り取られたサトウキビの葉を剥がす作業を意味するハワイの言葉「ホレホレ」の合成語です。サトウキビの葉を剥がす仕事は、基本的には女性が行っていました。一世女性は、馴染み深い日本のメロディーにあわせて、日々の苦労や落胆、そして希望を込めて、数多くの唄を作りました。1
このインタビューで、アリソン・アラカワ氏は、展示のオープニングイベントで披露したパフォーマンスや、敬愛するカワカミ氏の業績、そして伝統文化やハワイの歴史と自身の関わりについて語ってくれました。
アリソン・アラカワさんへのQ&A
Q. ご家族は、いつ頃ハワイへ来たのですか?
私はホノルルで生まれ育ちました。母方と父方、両方から数えてハワイの4世です。母方は中国にルーツがあり、父方は沖縄です。ほとんどの移民がそうだったように、私の曾祖父母もより良い生活と仕事を求めてハワイへ渡ったそうです。母方の曾祖父は仕立て屋で、父方の曾祖父は農園で働くために来ました。
Q. 展示のオープニングイベントでのパフォーマンスについてお聞かせ下さい。
バーバラ・カワカミさんから電話で、オープニングで「ホレホレ節」を唄ってほしいと依頼がありました。「ホレホレ節」は、サトウキビ畑で働く人々の苦悩が生んだ、一世のプランテーション歌です。この歌の根底にあるものは、アフリカン・アメリカンが苦しみに耐えながらも農場で作った労働歌と近いものがあります。歌詞は、望郷への想い、ハワイの新生活の中で感じるジレンマといった一世の人々の軌跡を物語っています。私がこれを唄う時は、バーバラが当時まだ10代だった私に作ってくれた衣装を着るようにしています。手織りの綿(絣)製で、サガミ・シノザワさんという方が広島からハワイへ持ってきた生地です。シノザワさんは、写真花嫁としてハワイへ渡っていました。彼女は、未使用の生地一反を、バーバラへリサーチのためにと譲ったものでした。
Q. いつ、どのようなきっかけで日本の音楽を勉強し始めたのですか?
もともと音楽は大好きで、小さいころから歌っていました。私は英語の歌を学ぶつもりで母に、歌を学びたいと話しました。でも、祖母からの提案で、両親は私を日本音楽のレッスンに通わせることにしました。そして、私は4歳のとき、ハリー・ウラタ先生のもとで音楽の勉強を始めました。私の叔母が小さかった頃、ウラタ先生に教わっていたそうです。私の家系には、音楽の血が少し流れているのかもしれませんね。父も趣味でギターを演奏していましたし、別の叔母も歌っていました。ピアニストの叔父もいますからね。
はじめに学んだのは、日本の子供の歌、童謡でした。レッスンは楽しかったですよ。先生は、歌の説明をするのにいつも物語を通し説明してくれました。レッスンはお話しの時間のようでした。歌と同時に、日本の文化や歴史をちょっと知る機会にもなりました。年齢が上になると、演歌を学ぶようになりました。その頃には、もう日本語で歌うことに慣れていました。歌詞ひとつひとつが何を意味するか必ずしも理解して歌っていたわけではありませんが、曲全体の意味や背景にある感情は理解していました。日本語は私の母語ではありませんが、日本語で歌うことは、私にとって自然なことになっていました。
Q. ハリー・ウラタさんはどういった方ですか?
ウラタ先生は、ハワイ生まれの帰米で、日本で教育を受けた二世です。音楽教師であり、ジャズのビッグバンド(オーケストラ編成を持つジャズバンド)全盛期にはオーケストラ・リーダーを務めていました。第二次大戦中には、強制収容所に収容され、そこでの出会いがきっかけで、一世のプランテーション歌を収集することになりました。戦後何年も経った後、先生はハワイの島々を訪ね歩き、一世に会い、さまざまなプランテーション歌を集めました。地域ごとに異なるメロディーの「ホレホレ節」があったので、ウラタ先生は、後世に継承することができるようにと、スタンダード版を作りました。一世が体験した情景を映し出すような曲調を選び、コードを付けていきました。もともとさまざまなバージョンのある曲ですから、どれが正しいというわけではありません。中には、色っぽいものやきわどい内容の曲もあるんですよ(笑)。幸いにも先生は、一世の人々が亡くなる前に彼女らのことを学び、一世のストーリーを記録することができたのです。
Q. 「ホレホレ節」を学び始めたのはいつですか?
10代の頃でした。確か、14歳くらいだったと思います。もう少し上だったかもしれません。ウラタ先生に、「この曲を歌ってほしい。」と言われたのが始まりでした。先生は、外国の土地で家族のために新しい生活を切り開く一世の苦労、彼女らの経験や、曲の重要な意味を説明してくれました。そしてウラタ先生は、私をバーバラ・カワカミさんに紹介してくれたのです。カワカミさんには衣装を作っていただきました。その時から私は、「ホレホレ節ガール」となったんです。その頃、私はちょうど写真花嫁と同じくらいの年齢でした。写真花嫁として渡った一世女性のほとんどは、17歳、もしくはもっと若くしてハワイへ嫁いだ人々です。「ホレホレ節」は、人々によく知られるようになり、ウラタ先生の弟子たちは地域のイベントなどでもこの曲を唄うようになりました。
Q. バーバラ・カワカミさんが作ってくださった衣装はどのようなものでしたか?初めてご覧になった時どう感じましたか?そして今、ご自身とどのようなつながりを感じていますか?
「どうしましょう!今着るの?!」(笑)その衣装の文化的重要性、それから当時としてはとてもおしゃれなスタイルだったこと、そして服に付随する当時の厳しい労働への尊敬もあります。
でも、現代の感覚で言えば、素晴らしい服とは言い難いですよね。足袋、大きな麦わら帽子、顔と頭に巻くものと帽子の上で巻くバンダナ、手差し、脚絆、ボタンがけの長袖の上着、スカート、帯、それら全てがあって初めて完成されるスタイルです。全部身につけているとあまりよく顔が見えないので、帽子をとると、皆が思うより私が若いことに驚かれます。
バーバラは、とても素晴らしい女性ですよ。多くを成し遂げた人です。先生が、彼女に衣装を頼んだ時、彼女は最初の本に取り掛かっている最中ですごく忙しい時期だったんですけど、快く引き受けてくれたんです。私は、彼女の家へいって、寸法を測ってもらい、彼女に衣装を調節してもらいました。20年経った今も、私は同じ衣装をつけています。当時はもっとゆったり着られましたけど、今でも身につけているんですよ。驚きですよね。これ以上体重が増えると大変なことになりますけどね!
この衣装は、本当に特別なものです。バーバラが使ったこの生地は、写真花嫁が持ってきたもので、おそらく100年くらいも前の布です。とても長い間着ているので、とてもよく馴染んでいますよ。私は他の衣装を着て「ホレホレ節」を歌ったことはないと思います。「Textured Lives」の展示のオープニングで歌った時、2曲目の前にこの衣装に着替えました。この衣装を着られることを、私はとても幸運なことと思っていますし、曲の精神を尊敬し、「ホレホレ節」の質を保つことが大切だと考えています。
>> 展示オープニングの「ホレホレ節」パフォーマンスビデオをみる
Q. 「ホレホレ節」の重要性について、どのようにお考えか説明していただけますか?
「ホレホレ節」に込められているのは、外国の土地で家族のために新しい生活を切り開いていった一世の苦悩、彼らの物語です。歌詞に綴られている一世の払った犠牲があるからこそ、今の私たちの生活があるのです。さとうきびの葉を剥ぐ「ホレホレ」などのプランテーション作業は、ハワイのサトウキビ業界の発展にも重要な貢献をし、また、島々で見られる多文化の融合にも寄与しました。
ウラタ先生の勧めで2000年にCDレコーディングしたバージョンは、4番まであります。いずれもとても心を打つ内容ですが、3番は特にすごく詩的で、私は大好きなんです。シンプルですが、情景がとてもよく浮かぶのです。こんな曲です…
It’s starting to rain 雨が降ってきて
The wash is getting wet 小川もだんだん濡れてきて
The child is crying upon the mother’s back お母さんの背中で泣いてる小さな子
And the rice just burnt ご飯はもう焦げていた
この曲にはお座敷バージョンもあって、お客さんが休んだり気晴らしをする茶店で歌われました。このバージョンはテンポも速くて、三味線が伴奏として入ります。活気あるパーティ仕様です。私が歌うのは、主にプランテーションバージョンですけどね。CDには、両バージョンのカラオケが入っています。
Q. 観客の反応はいかがですか?
一世の苦労に胸を打たれ、彼らの物語に感動します。日本とハワイで歌う時は、観客はとても静かになりますね。この曲には、人々を集中して聴き入らせる力があるのです。私は、この曲を聴いて涙目になる観客を何人も見てきました。特に日本では、何十年も昔にハワイへ渡った親戚や友人を持つ日本人がたくさんいるのだと思います。でもハワイへ渡った彼らがその後どうなったのかわからなかったり、そういう友人や親戚を持つ日本人は、この歌を通して彼らの経験を知り、胸を打たれるのだと思います。
Q. 少し話しは変わりますが、「Textured Lives」のオープニングで歌った他の曲についてお話しください。
「芭蕉布」は沖縄のことを歌った曲です。「my homeland (私の故郷)」という曲は、有名な沖縄出身の作曲家、普久原 恒男氏が私の叔母、クララ・アラカワが歌うために書いた曲です。「芭蕉布」は、沖縄でもハワイの沖縄系住民の間でもよく知られる曲になりました。1994年、私は国費奨学金を得て、沖縄で日本語を学びました。沖縄では、沖縄の古典音楽や民謡を学びました。普久原 恒男先生や伊波智恵子先生の下で学ぶことができ、とても幸運でした。それから三線は、照喜名朝一先生に教えていただきました。「芭蕉布」は、物心ついた頃から歌っています。父がギターを演奏する時には、決まって私や妹に歌わせたものです。沖縄民謡を学んだことは、素晴らしい経験になりました。沖縄民謡の発声方法は、演歌の歌い方とは真逆だということが分かりました。演歌ではよくビブラートを効かせますが、沖縄音楽ではそれはなく、高音と低音の使い分けがあります。それから、沖縄の方言で歌うことを学ばなければなりませんでしたが、とても難しくもあり、楽しい経験でした。
>> 展示オープニングでの「芭蕉布」のパフォーマンスビデオを見る
Q. その他にはどのような音楽教育を受けましたか?
日本と沖縄音楽以外には、何年かピアノのレッスンを受けました。中学時代にはパーカッションをしていたのと、その頃ギターにも挑戦し始めました。
Q. 沖縄文化関係の活動にはとても意欲的でいらっしゃいますが、中国文化についてはいかがですか?
残念ながら、中国文化にはほとんど関わってきていません。でも、主な祝日はずっとお祝いしてきました。ほとんど食べ物が中心でしたけれど。中国系の祖母は、一年を通して食べる普段の中華料理の他に、旧正月にはガウ(正月用のプリン)や飴でコーティングしてあるココナッツを私たちが食べられるよう準備してくれました。父は、私と姉が何か武術を学ぶことを主張したので、合気道のクラスに何年か通いました。そしてその後、沖縄剛柔流空手を始めました。沖縄は中国からたくさんの影響を受けていて、沖縄の歴史や文化に深く浸透しています。このことがあって、私は中国文化にもいつも強いつながりを感じていました。今後はさらに中国文化を探求していこうと楽しみにしています。
Q. アメリカ本土へはいつ来たのですか?
2002年です。
Q. ロサンゼルスでは、何のお仕事をされているのですか?
ディズニー製品の特許に関する仕事をしています。
Q. そして音楽ですね。音楽は、アラカワさんの人生において最も重要な部分を占めてきたことは明白だと思います。現在、アラカワさんにとって音楽とは?
私は一生かけて音楽を続けていくでしょう。小さい頃からたくさんのコンテストに出場し、ハワイのコミュニティで歌ってきました。子供の頃はハワイに住んでいましたから、パフォーマンスをする場所は今とその頃とは異なります。今でもカリフォルニアや依頼があればハワイでも文化イベントで歌っています。それから日本や沖縄のイベントでも素晴らしい機会に恵まれてきました。そしてもちろん、自宅でも最高のギター奏者の夫と一緒に歌うことを楽しんでいます。
Q. 「ホレホレ節」を初めて学んで以来、歌の意味の捉え方やアラカワさんの歌い方はどのように変化してきましたか?
年齢を重ねるとともに上手くなっていればいいなと思います。生きていればさまざまな経験をし、成長するにつれて物の見方も変化します。また、経験によって多くのことに対する感謝の気持ちは深まっていきました。こういう気持ちが、音楽を通して伝わればいいですね。
ウラタ先生やバーバラ・カワカミさんが、一世の文化や歴史を保存しようという配慮を持たれたことを、私はとてもうれしく思っています。もしお二人が一世の軌跡を収集し記録してこなければ、今日、それらは失われていたでしょう。そして私たちの伝統の一部は完全に失われていたことでしょう。
私は、一世文化の継承に関われたことに感謝しています。そして、ウラタ先生が彼のライフワークに私を関わらせてくれたことを、とても幸運なことと心から思っています。先生は、この曲を私に教え、レコーディングさせてくれました。私は、出来る限り歌い続けたいと思っています。これは、私たちの歴史です。そして歌う機会が与えられ、人々と共有できることを、私は誇りに思っています。
注釈:
「ホレホレ節」に関する詳細は、以下を参照下さい。
・ フランクリン・S・オドウ、ハリー・ミノル・ウラタ共著 『Hole, Hole, Bushi: Songs of Hawaii’s Japanese Immigrants in Hawaii 』ハワイ州マナ エレパイオ、ハワイ(1981年)
・ スーザン・アサイ、フレッド・ホウ共著記事「Hole Hole Bushi: Cultural/Musical Resistance by Japanese Women Plantation Workers in Early Twentieth-Century Hawaii」 フレッド・ホウ選集、『Wicked Theory, Naked Practice』に掲載。ダイアン・C・フジノ編 集、ミネソタ大学出版、ミネアポリス(2009年)
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織りなる様々な人生:ハワイのプランテーションでの日本人移民の服装
2010年8月22日まで開催
ハワイのサトウキビ・プランテーションで働きやすいように作り変えられた美しい日本の着物やそこで働いた移民たちの生活を垣間見ることが出来ます。この展示では貴重な衣類、写真、フィルムに加えて研究員バーバラ・カワカミによる珍しい口述動画で初期の日本人移民の体験を教えてくれます。
展示の詳しい情報はこちら>> janm.org/exhibits/texturedlives (英語のみ)
© 2010 Sojin Kim