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二つの国の視点から

ブレンダ・ウォン・アオキ~日米の物語を語る3世のソロ・パフォーマー~ その1

2007年から2008年にかけて、ブレンダ・ウォン・アオキは、「日米芸術家交換プログラム」で、夫君でベース奏者のマーク・イズ、息子で打楽器奏者のカイ・カネ・アオキ・イズ(別名KK)とともに、日本に滞在していた。彼女の来日に合わせて、「Mermaid Meat and Other Japanese Ghost Stories(2007)」というテキスト付のCDがリリースされ、いくつかの場所でブレンダの一人芝居が上演された。

ブレンダ・ウォン・アオキ (提供:ブレンダ・ウォン・アオキ)

私が見られたのは、「Mermaid Meat(人魚の肉)」と、「Uncle Gunjiro's Girlfriend (グンジロウ叔父さんの彼女)」だったが、私が仲間と主宰している「アジア系アメリカ人研究会」でも彼女を招き、「The Train Ride(汽車に乗って)」と、「To Fa, Lia(さよなら、リア)」という2つの短編を演じていただいた。

ブレンダ・ウォン・アオキは、正式な名前を、Brenda Jean Bavarro McPhillips Aokiといい、日本と中国だけでなく、スペインとスコットランドの名前が入っている。父親が日系2世で、母親がスペイン・スコットランド系の中国人だからだ。その複雑な出自のため、自分が何者なのかという意識は、子供の頃から相当強かったらしい。だから、彼女の作品には、自分や自分の家族、また育った環境が強く投影されている。

ボーイフレンドを亡くした青春時代

「The Queen's Garden」

1998年にリリースされた「The Queen's Garden」は、ブレンダの青春史とでもいうべき作品である。彼女がこの作品を書き、演じようと思ったきっかけは、1992年の4月から5月にかけて、ロサンゼルスのサウス・セントラル地区で起きたロサンゼルス暴動だった。全米を旅公演しているブレンダは、暴動の後、「ロサンゼルスは狂っている。あんなところに住んでなくてよかった」という声をあちこちで聞いた。彼女は思った。ロサンゼルスの暴動を生み出した状況は、全米どこにでもあるではないか。そんな思いに駆られて書かれたのがこの作品で、同年の10月にサンフランシスコで初演されている。

1953年にユタ州で生まれ、ロサンゼルスのウェストサイドで育ったブレンダは、65年にロサンゼルスのワッツで起きた黒人暴動や、ベトナム戦争の時代を生きている。

そんな時代背景の中で、物語は、14歳のときからのサモア人のボーイフレンド、カリとの出会いから、彼が仲間と揉めて銃で撃たれて亡くなるまでを扱っている。作品のタイトルのクイーンとはカリのお母さんのことで、カリの家の庭にはきれいなバラが咲いていた。サンフランシスコに住む今も、カリとウェストサイドはいつもブレンダの心の中にある。「クイーンの庭」は彼女の青春の象徴なのだろう。

家族を描いた作品には、「Dreams & Illusions」(1990)に含まれている「祖父の回想」、CDにはなっていないが、冒頭で紹介した「さよなら、リア」と「グンジロウ叔父さんの彼女」があり、後者はブレンダのウェブサイトで最初の10分がビデオで見られる。この作品はブレンダ祖父の弟、つまり大叔父にあたる軍次郎が、1909年に白人であるヘレン・グレディス・エメリーと異人種間結婚をして大問題になった実話で、初演が1998年。日本でも、彼女が来日していた2007年に、国際文化会館で、2人が恋に落ちる場面が上演された。

一族の物語を次世代へ伝えたい

ヘレンとグンジロウ。結婚式に撮影された一枚 (提供:ブレンダ・ウォン・アオキ)

「グンジロウ叔父さんの彼女」は、巨大ナマズの伝説から始まる。

昔々、地球の中心に巨大なナマズが住んでいた。このナマズは踊るのが好きだった。踊って踊って踊って、踊ーる。やがて地球は波のようにうねり、その亀裂から火が起きる。こうして混乱が降臨する。

踊るブレンダの後ろに、1906年に起きたサンフランシスコ大地震の写真が映し出されている。舞台下手でマーク・イズがベースと笙で効果音を担当し、舞台上手でKKがパーカッションを叩きながら、狂言回しのような役割をしている。

この大地震をヘレンもグンジロウも生き抜いた。ナマズから一転して、この後ブレンダは、2人が恋に落ちる場面を一人で演じていく。

ブレンダの従姉妹、103歳のサダエ(1998年撮影) (提供:ブレンダ・ウォン・アオキ)

ブレンダは幼いときから自分の家に何かタブーがあることに気づいていた。彼女がこの物語を上演するきっかけは、それを知りたいと思ったことだった。そのために、彼女は車を飛ばして、サクラメントに住む103歳の従姉妹、サダエに会いにいった。サダエは古いアルバムを取り出して、グンジロウとヘレンの写真を見せてくれた。そのとき、サダエの家を訪ねてきた親戚のうちの一人が、「フン」といいながらアルバムを閉じた。ブレンダは、このことを一族が秘密にしていると悟った。

その後、ブレンダは図書館に行って、サンフランシスコ・クロニクルなどの新聞で、次のような記事を見つける。

1909年3月10日:牧師の娘がサムライと結婚

ヘレンは聖公会の大執事、ジョン・エメリーの娘で、グンジロウは武士の子孫だと書かれていた。

1909年3月12日:エメリー家の友人、医療アドバイスを求める。催眠術で、女の子が日本人に惚れることを説明できるだろうか?

1909年3月16日:日本人と白人の結婚禁止

サクラメント市議会がこの日、カリフォルニア州での白人との結婚を禁じる人種リストに日本人を加える。

若い頃のサダエ(1902年撮影) (提供:ブレンダ・ウォン・アオキ)

1909年3月20日『The Call』:コート・マデラの住人が日本人求婚者を非難

2人の敵は議会ばかりではなかった。1909年3月20日の『新世界』の記事を見ると、日系社会も2人を別れさせようとしていることがわかるが、軍次郎はきっぱり断っている。

2人は結婚したものの、様々な波紋が広がった。ヘレンは市民権を剥奪され、エメリー夫妻は離婚。大執事だったジョン・エメリーは聖公会を辞任した。サンフランシスコで聖公会を立ち上げたブレンダの祖父も辞任に追い込まれ、ユタ州に追放された。ブレンダの祖父と祖母は、失意のうちに、間もなくしてユタの地で亡くなった。

グンジロウが亡くなり、ヘレンは苗字をAoki(アオキ)からOakie(オエイキ)に変えることで、1933年11月に市民権を回復した。ブレンダは思った。青木家が隠し、恥としてきたことは、決して恥ではない。むしろ自分は誇りに思う。そして、次世代に伝えていかなくてはならない。彼女自身も異人種間の結婚で生まれているだけに、ブレンダのこの話に対する思いは強い。

その2>>

左から 『The Call』 1909年3月20日刊と新聞『新世界』の記事(1909年3月20日刊) (提供:ブレンダ・ウォン・アオキ)
 

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第10回目からの転載です。

© 2010 Association Press and Tatsuya Sudo

actors Brenda Wong Aoki sansei

このシリーズについて

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。