ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/2/1/3261/

「僕は、何よりもまずアメリカ人です。そして僕は黒人です。」 アメリカ人演歌歌手、ジェロ

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日本演歌界という独特の伝統を誇る世界で、現在最も有名な新人演歌歌手は、ジェロである。

写真提供:ビクターエンタテインメント株式会社

2009年初頭、「ジェロと私(Jero and Me)」 と題した記事を書いて以来、私は、このアメリカ出身の日系歌手に強く興味を持つようになった。彼は、ファーストアルバム「カバーズ」(2008)、続いて「約束」(2009)、「カバーズ2」をリリースし、今や日本のお茶の間の顔となっている。私は、ジェロへのメディアハイプの裏側を探ってみたいと思うようになった。

日本に馴染もうとするガイジンが、日本では好まれている。ジェロはその点で人と違い、独自のファッションセンスとアイデンティティ意識を持ち、彼自身のやり方を貫こうとしている。ジェロには、演歌という彼自身が選んだ芸術分野において、ポジティブな変化を起こそうという目的意識と決意がある。インタビューを終えた私は、そんな彼に深い尊敬を抱いていた。日本の音楽業界において、もし彼が演歌以上に力のあるジャンルを選んでいたとしても、もしくは認知度の低いマイナーなジャンルの活動をしていたとしても、彼は演歌で獲得した以上の成功をおさめることはなかっただろう。

伝説的歌手、美空ひばりの他に、ジェロが最も強い影響を受けたのは、先輩歌手である氷川きよし(32)と坂本冬美(42)だと、彼は語る。

彼が歩んできた今日までの道のりは、よくできた演歌の歌詞世界そのもののようだ。彼は、祖母の多喜子に強い影響を受けて育った。多喜子は、ジェロの祖父であるアフリカン・アメリカンの軍人と第二次世界大戦中にダンスを介して出会った。二人は後に結婚し、娘の晴美が生まれ、ピッツバーグに移住した。1981年、同じ土地でジェロは、ジェローム・チャールズ・ジュニアとして生まれた。ジェロは、祖母多喜子の影響で、演歌を聴きながら育ち、幼少より日本語も学んだ。2003年にピッツバーグ大学を卒業したジェロは、日本へ移住し、英語講師を経てコンピュータエンジニアとして生計を立てるようになった。その一方で、いつか演歌歌手となり、NHK紅白歌合戦に出場する、という多喜子と交わした約束を果たすため、精力的に活動を続けた。ジェロは、その2つの約束を果たすことができたが、不運にもそれは多喜子が2005年に亡くなった後のことだった。

私がジェロに会ったのは、東京恵比寿の目立たないビルの中だった。それは、その界隈にはよくある、両脇を似たような建物に窮屈に挟まれた、3階建ての細長いビルだった。27歳の彼は、私を礼儀正しく迎え入れてくれた。そして私は、彼の成熟し、落ち着いた物腰に感銘を受けたのだった。

私が彼との面会を果たしたのは、ニューアルバム「カバー2」とシングル「爪跡」が8月にリリースされる直前だった。そしてその頃、彼は少人数のバンドと4人のヒップホップダンサーと共に全国35ヵ所を巡る、最初のコンサートツアーへの準備のただ中にいた。

バラク・オバマ氏の当選について、どう思いますか?

昨年は、黒人では初の合衆国大統領が誕生し、初の黒人演歌歌手もデビューした、忘れられない年になりましたね。祖父が生きていれば、喜んだだろうと思います。オバマは素晴しい仕事をしていると思うし、僕は彼を100パーセント支持しています。

「初のアメリカ人演歌歌手」として大々的にメディアに取り上げられましたが、どう対処しましたか?

少し悲しい気もするのですが、デビューしたばかりの頃僕は、『初の黒人演歌歌手』、『初のアメリカ人演歌歌手』、『初の黒人のアメリカ人演歌歌手』、と何度も呼ばれました。世間はまず、表面的なところを見るのですね。最初の頃はそのように呼ばれる中で、『黒人』の部分はそこでは必要なのか?などと思うこともありましたが、僕はそのことを肯定的に考えてみました。僕は、間違った呼び方をされた訳ではなくて、確かに僕は黒人であり、アメリカ人であり、そして演歌歌手なのです。でも僕は、黒人でありアメリカ人だから、今の成功を手にできたのかと言われても、全くそうだとは言い切れません。僕はそもそも、他の人とは違うのです。僕は、日本語が上手いとか、日本人のように歌い、話すとかよく言われていて、それはとてもうれしいし、いいことだと思っています。ほめ言葉ですからね。ありがたいことです。僕のふるまい方についても、よくコメントをもらいます。でも僕は、そういったことのお陰で自分が成功できたとは考えていません。でも、多くの人が見ているのは、そういう表面的なところなのでしょう。とは言っても、僕は自分自身を変えてまで、みんなが僕に期待するイメージに忠実であろうとは思いません。

僕は、何よりもまずアメリカ人です。そして僕は黒人です。一人の人として、僕は自分の意見を言うし、自分がどう感じているか、相手に伝えます。それは、僕の周りのスタッフもみんなよく知っているとおりです。もし僕が何かを不満に感じれば、そう伝えます。僕は、他の人たちと衝突することを良いこととは全然思わないけれど、ただ我慢して黙っているつもりはありません。言うべきことは言い、自分の気持ちを伝えたいのです。

ヒップホップ系ファッションを選んだのは、何か意図があったからですか?

大阪で何度かライブをした後、僕は初めてスカウトされました。僕を本格的に歌手デビューさせたいという話がきたのです。着物を着るのは僕のスタイルではないし、着物と演歌が直結しているわけでもありません。音楽のジャンルは、その音楽性によって決まるわけですからね。どんなファッションに身を包むかは、音楽のジャンルとは関係のないことです。ファッションは、音楽と共に徐々に変化していくものです。今は、たくさんの男性演歌歌手がジーンズとシャツを着て歌ったり、スーツを着る人もいれば、着ない人もいます。もし僕が着物やスーツ姿で歌っていたら、僕の真剣さは、誰にも伝わっていなかったと思います。

ステージに立つ時、僕は僕自身でありたいのです。僕は普段もこういう格好をしているし、これが僕です。だからと言ってギャングではないし、僕は単にこういうファッションが好きなんです。好きじゃなくなったら止めますけどね。僕はまだ27歳だし、こういうスタイルの服が着られる年齢です。僕と同年代の日本の人たちにも、自分と何か接点がありそうだ、と感じる存在っていると思うんですね。そういう意味で、同年代の人たちも演歌を聴くようになればいいと思います。そして、演歌の良さを見直してほしいですね。

そのような形での自己表現に対し、周囲から抵抗されませんでしたか?

彼らが感じていたのは、抵抗というよりは、リスクです。僕もそれは、十分理解できることだと思いました。でも、彼らに頼み込んでお願いする必要はありませんでした。僕はただ、自分の考えを率直に伝えたのです。彼らは僕の考えを聞き、受け入れてくれました。僕はそのことにも感謝しています。」

日本人歌手だったとしても、そのファッション選択は受け入れられていたでしょうか?

僕がアメリカ人だから、寛大に受け入れられていることもあります。もし僕が日本人で、こういったスタイルの服を着たいと言っても、おそらく受け入れられなかったでしょう。先にもお話ししたように、僕がアメリカ出身だから、許されたところもあると思います。

自分は日系人だと感じていますか?

日系ではあると思いますが、4分の1だけですからね。僕は、やはりアフリカン・アメリカンです。自分が受け継いでいるものを否定はしませんが、表面的には黒人です。まあ、混血ということですね。

いつ演歌歌手になりたいと思ったのですか?

子供の頃、僕はいつも演歌歌手になることを想い描いたり、夢見ていました。でも僕は、アメリカに住んでいたし、演歌は誰にも知られていませんでしたから、現実的にはとても無理だろうと思っていました。でも、交換留学生として来日する度に、もしかしたら日本に移り住んで、働きながらその夢を追うことができるのではないかと考えるようになりました。そして大学の頃、日本に行って働きながら、歌手になれるかどうかやれるだけやってみようと決心しました。

演歌以外には、どんな音楽を聴いて育ちましたか?

ずっと演歌を歌い続けていたので、自信を持って歌えるものといえば、本当に演歌だけでした。アートに関して言えば、僕には歌かダンスしかなかったですね。もしそのどちらもできなければ、コンピュータなどを使う仕事に就いていたと思います。僕の両親は、80年代から90年代のR&Bを聴いていましたね。僕は、ルーサー・バンドロスが好きでした。祖母は美空ひばりをよく聴いていました。

おばあさんのことは、大げさに取り上げられていませんか?

祖母が居たからこそ、僕は日本にいるのです。彼女の影響を受けなければ、僕が演歌や日本を知ることはなかったでしょう。祖母が日本で生まれ育ち、祖父と出会い、母と僕が生まれた、その一連のサイクルは、全て彼女のお陰です。祖母はいつだって、僕が歌うことと学校で良い成績をとることを楽しみにしてくれました。祖母は、僕の一番のファンの一人なのです。

ジェロさんの夢が行き着いたところを知ったら、おばあさんはどう思われるでしょう?

有頂天になって喜ぶでしょうね。僕と同じくらい有名になったでしょう!祖母も日本に来て、僕を応援してくれていたと思います。そして人生最高の時を過ごしていただろうと思います。

アルバム、「約束」はおばあさんに捧げたものですか?

祖母との約束は、昨年リリースしたファーストアルバムで全て果たすことができたので、今年2月にリリースした『約束』というアルバムを、祖母に捧げました。『晴れ舞台』という曲は、母に捧げたものです。

たくさんの日本の物に囲まれて育ちましたか?

母と祖母は、ほとんど毎日のように日本食を作っていました。朝ごはんには、ご飯と焼き魚、そして納豆を食べ、きゅうりの漬物や炊き込みご飯も作ってくれましたね。日本の文化に親しみながら育ちました。僕は、外で元気にスポーツをするタイプではなくて、家でテレビゲームをしたり音楽を聴いたりするような子供でした。

歌の内容を知るようになったのは、何歳頃でしたか?

5歳とか6歳の頃は、歌の内容がわかるほどの語威力はまだありませんでした。それがわかるようになったのは、大学に入って、日本語をもっと早いペースで習得するようになってからです。初めて日本へ行ったのは、スピーチコンテストに参加した15歳の時です。

アメリカ人には、どのように演歌を説明していますか?

演歌の歌詞には奥深さがあり、それは詩的で、日本らしいのです。日本のブルースと言えます。メロドラマ風で、心に響きます。悲しみや、人々の感情が描かれているところは、ブルースと同じです。

演歌を英語で歌うことはできると思いますか?

正直に言って、できないと思います。日本語のフレーズやメロディー、詩形には、決まった数の音節があるので、それを英語には上手く訳しきれないと思います。英語より日本語の方が、よりたくさんの意味を込められます。言葉をそのまま訳して英語にすることは可能でしょうけど、言葉の背後にある日本語のニュアンスは、失われると思います。

演歌界からの支持はありますか?

支持していただいています。お会いした何人かの方からは、『日本へ来て、私たちの音楽を歌ってくれてありがとう。』と言っていただきました。先輩が後輩に対してそういうことは通常言わないので、驚きましたね。たくさんの方に励まされていますよ。本当にありがたいことだと受け止めています。先輩の歌手の皆さんはいつも謙虚なのです。もちろん僕はもっと謙虚であるわけですが。

自分自身を、文化的な意味で草分け的存在だと思いますか?

どんな国にも、他のさまざまな文化や人種に対するステレオタイプは、たくさんあると思います。それは避けられないことだと思っています。より多くの人々が、世の中には僕のような人たちも居て、単に一面的な見方では、(文化や人種を)語れないということを知ってくれればいいなと思います。

日本では、演歌を聴く若者は多くありません。若者は、自分たちの両親が聴いている音楽を聴きたくないのです。それが、日本の若い人たちが演歌を聴かない主要因です。僕はアメリカで育ったので、他と違うものの価値を認められるのです。そしてそのお陰で、僕の今のキャリアがあります。

僕は、かなり早い段階で有名になりましたが、演歌歌手のほとんどは、デビュー最初の年に大きく成功することはありません。とてもありがたいことだと思っています。でも、成功の理由はあまり考えませんし、毎日のように考えるべきことだとも思いません。ステージに立つときは、みんなが期待する誰かになるのではなく、ただ自分自身で居たいと考えています。演歌を歌うアメリカ人は、今までは居ませんでした。僕がアメリカで生まれ育ち、他の人と違うことが、結果的に有利に働きました。若い人たちの方が、そのような違いに価値を見出し、僕のファンになってくれるようです。僕は心から、とてもありがたいことだと思っています。

ファン層はどういった方々ですか?

40代から60代の女性がほとんどです。僕の容姿や振る舞い方が好きなようですね。ファンレターもたくさんいただきますよ。

今後、どのような方向性で活動していきたいですか?

新しい曲を世に出していくことに今は集中したいですね。ゆくゆくは、ビジネスを始めるなど、音楽業界の他の面にも活動を広げていきたいです。今現在は、音楽そのものに集中し、より多くの人たちが演歌を聴くようになってくれれば、と思います。僕のコンサートに来てくれた人には、年配の方も若い人も、友達を誘って次のコンサートへ来てくれるようになればいいですね。観客のみなさんとは、そんな風に関係を築いていきたいです。音楽には、人々を結集させる力があります。僕のデビューによって、母は再び日本に来ることができました。見過ごされていることかもしれませんが、音楽は実はたくさんの可能性を秘めているのです。

ご家族の方も来日できたのですか?

母にとっては、20年ぶりの来日でした。僕の兄妹、マイケル、マーク、ユミコも全員来日しました。日本でみんなが集まったのは、初めてのことです。それは、私たちの夢の1つでもありました。

今まで活動してきた中で、一番驚いたことは何ですか?

去年起こったことは、全てが驚きでした。演歌歌手としてデビューしても、最初のヒットまでは10年、もしくはそれ以上かかったという話を聞いていましたからね。僕の1年目は、とても珍しいケースです。僕はいつもそのことに感謝していますし、謙虚であり続けようと思います。

日本で「謙虚さ」が重要視されることについて教えてください。

それは、日本に限ったことではないと思います。謙虚でありながら、自分自身をよく知っていれば、他の人たちも認めてくれますし、尊敬を集めることができます。もしそうでなければ、それは他の人にも伝わるし、そういう人とは付き合いたくないと思われてしまいます。僕は、自分自身のあり方に満足しています。そして、アーティストとしても人間としても、成長し続けたいです。僕はいつか家を購入して、母親を日本に呼び寄せたいと思っています。東京ドームや武道館でコンサートをしたいという夢もあるし、いつか曲を書きたいとも思っています。

演歌の未来はどうなるのでしょう?

昨年のデビュー以来、以前より少し演歌に興味を持つようになった人は、増えたと思います。せっかく興味を持ってもらえたのですから、それをキープすることが大切です。日本では、みんなすぐに飽きてしまい、新しいグループやアーティストが好まれます。ですから、アーティストによっては、コアなファンにだけ集中して活動する人もいますし、自分のやり方を通し続けるアーティストもいます。僕は、よりたくさんの人たちに演歌を聴いてもらえるよう、手を広げていきたいと考えています。そして、演歌の素晴しさを知ってほしいのです。

メディアハイプはおさまりましたか?

僕が出てきたばかりの頃、メディアにかなり大きく取り上げられました。2月中、『ジェロはこうだ。ジェロはああだ。』と各種メディアが報道し、それは本当に恐いくらいでした。でも日本人にとっては、それは本当に大ごとだったのです。そして昨年、僕は賞をいくつか受賞し、僕は感激しながら、圧倒されてしまいました。それは、単なるCDの売り上げを基準にした受賞ではなく、僕が音楽業界へ与えたインパクトが考慮されての受賞でした。その受賞理由は、確かに大きな驚きではありませんでしたが、僕は本当に心から感謝しています。日本は僕を喜んで受け入れてくれた、そう感じたのです。

夢は何ですか?

演歌歌手になる夢は、叶えられました。今の夢は、できるだけ大勢の聴衆の前に立ち、歌うことです。数年後には、演歌歌手のほとんどが経験したことのないような大きなコンサートをやってみたいです。現時点では、アメリカや海外にまで活動の場を広げようという考えはありません。

最後に、日系の若者へメッセージをお願いします。

伝えたいことが2つあります。自分の夢を叶えるのは、到底無理だと思えたり、または夢がどんなに大きいものであっても、少しずつの歩みでもいいから、自分の夢を追い続けるべきです。諦めてはいけません。それに向かって努力を続けることです。そうすれば、たとえ叶えられなかったとしても、何かに向かって一生懸命頑張ったと、胸を張ることができるでしょう。それは、本当に大切なことです。

2つ目は、日本の音楽に興味のある人には、ぜひ一度、演歌を聴いてほしいということです。とにかく試しに、聴いてみてください。そして、歌詞に耳を傾けてください。どう感じるかはわかりませんが、きっと何か、得るものがあるでしょう。

* 本稿は、カナダトロントのトロントの月刊新聞、「ニッケイ・ボイス」2009年12月版からの転載です。)

© 2009 Norm Ibuki

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執筆者について

オンタリオ州オークビル在住の著者、ノーム・マサジ・イブキ氏は、1990年代初頭より日系カナダ人コミュニティについて、広範囲に及ぶ執筆を続けています。1995年から2004年にかけて、トロントの月刊新聞、「Nikkei Voice」へのコラムを担当し、日本(仙台)での体験談をシリーズで掲載しました。イブキ氏は現在、小学校で教鞭をとる傍ら、さまざまな刊行物への執筆を継続しています。

(2009年12月 更新)

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