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アンデスを超えたニッポン人

リベラルタのニッポン人 (2) -義元 富子-

70歳。沖縄県出身。

1961年、叔母の呼び寄せによりリベラルタに入る。(叔母の夫はペルー下り。この時、既に他界しており、叔母は一人でリベラルタに居た。)
父、母、兄、本人の4人。
当時20歳。

飛行機でリベラルタへ。
空港に着くなり、歩いても、歩いても街が見えてこない。

白いワンピースが汚れ、ハイヒールが泥だらけになったころ、「Plaza(広場)はどこですか」と尋ねたところ「今あなたが居る場所がPlaza(広場)です」と言われた。

周りには牛と草と木しかなかったので、ここがPlaza(広場)だと分からなかった。

始めは帰りたくて仕方なかった。

日本語を話す人が少なく、辛かった。虫が多く、蚊とマリフイには悩まされた。
毎日さされて足が腫れて膿が出た。

その後美容師になる為、ラパスへ免許を取りに行く(2年間)。
ラパスで沢山の日本人と知り合い、日本語を話し、虫に悩まされることも無く、いい気分転換になった。

その後リベラルタに戻り結婚。
子供が2人できた。

父が始めたレストラン「東京」を手伝いつつ、美容師として働く。

また、2世、3世の為に自宅で日本語教室を始める。
簡単な挨拶、物の名前など。

その後10年かけてジャイカボランティアの要請を出し、1988年、念願の日本語教師(ジャイカボランティア)を呼ぶことが出来た。
足掛け10年の結果。
ジャイカからは感謝状も頂いた。

日本人はペルーから渡ってきて勝手に移り住んだ。

その時リベラルタの人々が貧しかった為、日本人を拒む事が無かったので移り住む事が出来た。
始めは日本人についての理解が無く、ねたまれたり、嫌がらせを受けたりしたが、日本への出稼ぎが増えるに連れて、「日本に行けばお金を稼いで帰ってこられる」と次第に親日家が増えていった。

今まで日本への出稼ぎの支援などもしてきた。
リベラルタの中でも田舎に住んでいた住民を出稼ぎに出した事もある。
無償で入国手続きなどの書類の作成を手伝ったりしたにも関わらず、その後偽造のパスポートや戸籍抄本が出回ったりというトラブルもあった。

昔に比べてゴミがとても増えた。

父のレストランを手伝ったのがきっかけで、今は料理屋をしていて、主に日本食を作っている。
焼きそば、おにぎり、寿司など。

そしてたまに昔の常連さんに頼まれると髪を切ることもある。

もう50年リベラルタに住んでいる。
旅行では日本に帰るだろうが、住むことは無いと思う。

毎回、リベラルタ文化センターにて日本祭を開催する時には日本食を販売してくれている。
寿司、焼きソバは大変美味しく、毎回午前中に完売するほど評判だ。

*JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」からの転載。

© 2010 Shoko Hibino

Bolivia immigrants issei Riberalta

このシリーズについて

歩いてアンデス山脈を超え、アマゾン源流をカヌーで下りボリビアに入国。寒さと暑さの両極端による病気やジャングルの猛獣に怯えながらの地獄の旅であり、この旅をした人々は後に「ペルー下り」と呼ばれた。100人ほどの「ペルー下り」が、ボリビアのリベラルタに漂着した当時、その人口は3000人に満たなかった。それから100年が経過したいま、10万人を超える街になった。

このコラムでは、JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」に紹介されたリベラルタの日系人の話を紹介します。

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