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期待の子供

日系ブラジル人が日本で労働することができるようにするため、日本は1990年に移民法を改正しました。彼等は来日後、寂しさのあまり、ブラジルから家族を引き寄せ、または日本で家庭を築きました。時が経ち、彼等の子供たちは夢を追いかけ、親と同じく労働者になりました。しかし、移民という事実が彼らの人生にどのような影響を及ぼすのでしょうか?社会はどのように彼等を受け入れ、彼等はどのように社会を受け入れるのでしょうか?

私がブラジル人の若者や子供たちを撮影してから5年が経ちました。写真に収めてきた彼らの画像を眺めていると、今どうしているのか、どこでどのような生活を送っているのか、気になり出しました。日本には慣れているのだろうか?充実した生活を送りながら成長しているのだろうか?

そのような疑問を抱いていた時でした。ブラジル人の日本在住開始から20年たった現在、在日ブラジル人の5人中1人は未成年者だというデータを目にしたのです。そのデータは、日本在住のブラジル人移民の第2世代に対する期待が高まっている状況に理解を与える一方、彼等の現状を知ることがいかに大切であるか私に教えました。そのデータと、彼等の現状への疑問に促されながら、私は以前写真に収めた若者ら数人との再会を果たしました。そして、彼等の歴史を語ってもらったのです。

在日ブラジル人の若者らを取り囲んでいるたくさんの複雑な問題はすぐに解決できませんが、ここに紹介する彼等の声を胸に、問題の解決を期待していきたいと思います。「期待の子供」たちの声です。


Scarlet Rigolli Fortunatti, 18歳(撮影当時14歳)
愛知県豊橋市在住

私はサンパウロで生まれ、4歳の時に日本に来ました。みんなで一緒に暮らせるために親は先に来日し、仕事と家を見つけてくれました。6歳になった時に日本の小学校に入りました。言葉を覚え、食べ物に慣れるのに2年かかりました。しかし、他の子供とはいつまでたっても仲良くはできなくて、彼らからみると私はみんなと違ってたからです。中学校を卒業してから、勉強をやめて、モデルになる夢を追いかけました。これがちょうどその頃の写真です。でも、そのすぐ後に妊娠して、娘を産むために全てを諦めました。

マリア・エドゥアルダが生まれてからプリンターを作る工場で働くことになった。初日はとてもイライラした。時間の流れが遅くて、爪が割れしまって、そして、いつも履いていた大好きなハイヒールの代わりにスニーカーを履くことになりました。学校に戻らなきゃと思ったことがあるけど、仕事は夜勤なのですごく疲れます。

今はもうブラジルに住みたくない、日本の生活に慣れました。いつまでも外国人として見られてもずっと日本に住みたいです。私はここで育ち、神が望まなかったから日本で生まれませんでした。工場での仕事は前ほど嫌ではなくなったけれど、週末になると喜んでスニーカーを隠します。


Hayanna Iguchi Murakawa, 10歳(撮影当時5歳)
インドネシア、バリ島在住

私はブラジルと日本のどっちでもない所で生まれた日系ブラジル人です。私の親は日本で働いている時に知り合ったけど、バリ島に遊びに来たとき、あまりにも好きになってこの島に住むことにしたの。だから、私はここで生まれた。でも、ちょっと小さい時に家族全員で日本に出稼ぎに行ったことがある。

浜松市に住んでた。親が働いている間は学校に行ってた。ちょっとの間は保育園に通って、日本語を少し習って、色んな子供と知り合った。その後は、ブラジル人 学校に入学し、そこで自分と同じブラジル人の子供と知り合った。ブラジルにも遊びに行った事がある、最高だった。サトウキビのジュースを飲んで、パステーウ(ブラジル風揚げパイ)の全種類を食べた。

今はまたバリ島にいる、お母さんと過ごす時間も多いし、いっぱい遊べる。インターナショナルスクールに通ってて、英語で話すの。友達は私と同じように色んな国から来ている。日本で通ってた学校は好きだったけど、今の方が好き。みんなと違うという事が普通なとき。


Maúcha Shiwa Salles, 21歳(撮影当時14歳)
静岡県浜松市在住

ブラジルの思い出と言えば、よく遊びに行ってたイタペチニンガ(サンパウロ州)の大きな公園と大好きだった学校があります。日本には7歳の時に家族と一緒に来ました。すごく寒い時期に着いて、すぐに日本の学校に入学し、3年間その学校に通いました。

最初は言葉がさっぱりわからなかったので、すごく孤独を感じました。食べ物にも慣れなくて…ある時テストに何を書いたらいいのかわからなくて、カンニングをしてしまったこともあります。それから、少しずつ慣れて、友達もできました。3年過ぎた頃には、ブラジル人学校に転校しましたが、それでも違和感を感じていました。この写真はその頃に撮られたものです。そのあと、学校をやめ、働くことを決意しました。

初めての仕事はトヨタ自動車の部品工場での仕事でした。

疲れて家に帰ったけど、お母さんに心配をかけないように、いい一日だったと嘘をつきました。学校の友達の多くは私と同じ道を選びましたが、私は勉強を続けなかったことを後悔してます。今は一つだけ確信しているのはブラジルに帰りたいということ。理由は説明できません。人生のほとんどを日本で過ごし、自分の国のことをあまり覚えていない。それでも、ブラジルが恋しい。


Rye Inoue, 16歳(撮影当時11歳)
静岡県浜松市在住

私は日本の浜松市で生まれました。3歳の時に両親にブラジルに連れて行かれて、おばあちゃんと一緒に住むことになりました。そうしなければ、私達二人分の生活費まで稼げないと思ったからです。ブラジルでは、学校に通い、たくさんの友達を作りました。ある時、両親は帰国できるまでに時間がかかることに気付き、私を日本に呼び寄せたのです。この写真は日本に来たばかりの時です。

ブラジル人学校に入学したけど慣れませんでした。そして、日本の学校に入学してみました。最初は何も分からなかったので苦しかったです。週末には怖さのあまり、家から一歩も出ることはありませんでした。しかし、少しずつ慣れて、何人かの男の子が私と話すために辞書を買ったりしました。

まだよくわからないのだけど、将来はブラジルには住めないと思うので、大学に行きたいと思うし、日本以外の国に住むかもしれません。思春期を日本で過ごし、今は高校2年生です。学校に行くのは好きで、勉強は特に困ることがなく、何かわからないことがあると聞きます。だから、外国人の子供が変わった話し方をするからって大人は冷たい目で見ないでほしいです。


Douglas Takahashi Oliveira, 9歳(撮影当時5歳)
静岡県浜松市在住

私はブラジルのマト・グロス州、プリマヴェラ・ド・レスチで生まれました。おばあちゃんの近くの家に住んで、ソフィアという猫を飼ってたのを覚えています。一番仲のいい友達の名前はラザロで、友達とみんなでよく鬼ごっこやってました。

お母さんと一緒に5歳の時に浜松に来ました。ここに来た頃、日本語を覚えるのが一番大変なことでした。日本の学校に入ったけど、最初は分からない言葉ばかりを聞いて、お母さんが迎えに来てくれるの待つだけでした。少しずつ慣れると面白くなってきました。

今は、学校で僕の親友はユウジです。日本人もブラジル人もみんな仲良くしてます。お母さんと僕は日本が好きだけど、将来は何になりたいのかはわかりません。学校でサッカーもやります。僕はブラジル人だけどあまり上手じゃないです。まあまあです。

 

 

© 2010 Ricardo Yamamoto

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