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シアトル・タコマ今昔

シアトルとタコマはアメリカ西北部に位置するワシントン州の、州内第一・第三の都市である(州都はオリンピア)。シアトルはイチロー、マイクロソフト、スターバックスなどで日本にも馴染みが深く観光客も多い。アメリカでも一、二といわれる良港をもつタコマと共に、初期の日本人移民が多く移り住んだ地域でもあった。両市共に天然資源に恵まれ、19世紀半ばからは製材所が林立し、1887年のアラスカのクロンダイクのゴールドラッシュで人口は急増し、鉄道交通や東洋貿易で潤った。その後も第一次世界大戦を絶頂とする造船業やシアトルのボーイング社が牽引した飛行機産業、そして現在、マイクロソフト、アマゾン、グーグル、AT&Tなどを擁する、アメリカ西北部最大の経済圏に成長した。2000年現在の人口はそれぞれ約60万人、20万人となっている。

シアトルの日本人移民のパイオニアの一人とされる西井久八(愛媛県出身)がこの地にやってくるのが1883(明治16)年。シアトル対岸ベインブリッジ島の、当時世界最大といわれたポート=ブレイクリィ製材所に職を得た時には、既に「船員上がり」の日本人20名ばかりがここで働いていたという。1887年にシアトルに移り、スター洋食店を開業する。『米国西北部日本移民史』によれば、当時のシアトルは「極めて小さな一市街、四層乃至五層作りの建築物僅に二三、其他は皆木造の平屋のみ」で「商業區域も未だ第一街と第二街とがあったばかりで且つ街路の傍らに溝渠があったり樹木があったりして其光景寂莫を極め」ていたという(竹内1929)。

シアトルに日本人町が現れるのは、1889年の大火の後の復興の頃である。1905(明治38)年、日本人町を訪れた永井荷風は「嘗て船中で聞いた話のその通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変ったことのない有様に、少時は呆れてきょろきょろ為るばかり」と書いている。メイン・ストリートの4番街から7番街の間を中心に社会・経済的な基盤が築かれていたが、住居地域は更に広がり、教会や食料品店、劇場、日本語学校、ホテル、レストラン、銭湯などが入り混じったコミュニティが形成されていった。

シアトル、タコマに上陸する日本人移民の数が多かった理由の一つが、東洋貿易に従事する日本郵船、大阪商船などのタコマ、シアトルへの就航であった。1896(明治29)年、グレートノーザン鉄道会社の提携の申し入れを受けた日本郵船がシアトル航路を開設、日本郵船の誘致競争に敗れたタコマにも、1909(明治42)年には大阪商船のピューゼットサウンド線が開設される。かつて、シアトルは「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に」発展したと言われていた。日本から直接渡米する移民に、ハワイからの転航移民も加え、日本人の数が急増した。

戦前の日本人移民の心の支えであった日本人町を破壊したのは、1942(昭和17)年の強制立ち退きだった。戦後、この地に戻った人びとは、ひたすらアメリカ社会への同化を進め、シアトル、タコマの日本人町が元の姿を取り戻すことはなかった。「日本」を思わせるものは全て遠ざけられた。戦前のものとは比較にならないまでも、サンフランシスコやロサンゼルスで「日本人町」が再生されたのとは違い、シアトルで日本人町の往時を偲ばせるのは僅かに残る建物ばかりである。1909年に建設され、第二次大戦前には劇場として用いられた日本館が1980年、国の歴史的建造物に指定された。メイン・ストリートに面するパナマホテルも2006年に歴史的建造物に指定されているが、これも1910年に日本人労働者のために建てられた宿泊施設であったが、現在も、昔の面影を残したままホテルとしての経営を続けている。地下にはかつての銭湯が残され、隣接するカフェの床の一部がガラス張りとなって、強制立ち退きの際に残された荷物を見ることができるようになっている。

近年、わずかながら昔の面影を残していたシアトル、タコマの日本人町が急速に姿を変えつつある。シアトルの日本館は所有者の死後、売りに出されていると聞く。タコマに残されていた日本語学校の建物も、ワシントン大学のキャンパスの造成のため取り壊された。タコマに近接し、かつて多くの日本人が農業に従事した(愛媛県人が多く、「愛媛村」と呼ばれた)ファイフも、日本郵船がタコマ港湾局と25年間のコンテナターミナルのリース契約を結んだことで(2012年開業予定)、売り払われて、道路や倉庫街に姿を変えている。

一世・二世の多くがこの世を去り、四世・五世の異人種・異民族間の結婚が進むなか、「日本人」のアイデンティティをもつ人びとの数は今後ますます減じていくであろうと言われている。シアトルで知らぬ人のいない、アメリカ北西部最大の日本人向け食料品店UWAJIMAYA(創業者は愛媛県八幡浜の出身者)はますます発展を続け、さまざまな分野での日系人の活躍が伝えられる。その一方で古びた日本人町が姿を消していく。日本人移民および日系アメリカ人の歴史を日本人の視点で云々することは避けるべきだと思いつつ、「シカタガナイ」と淋しげに微笑む二世の言葉を聞きながら、何やら複雑な思いの今日この頃である。

*本稿は、国立歴史民俗博物館による編集・発行、特集展示『アメリカに渡った日本人と戦争の時代(図録)-Japanese Immigrants in the United States and the War Eraー』(2010)からの転載です。この展示は、2011年4月3日(日)まで開催しています。

© 2010 National Museum of Japanese History

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