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日本にて:ある日系カナダ人の移住そして引き揚げ-その3

>>その2

カナダに帰りたい

私はあまり幸せではありませんでした。本気に怒っていた訳ではなく、いらついていたのです。カナダが懐かしかった。レモンクリークがいとしかった。何より、英語の話せるカナダの友人と会いたかった。私は孤独感を感じていたのです。

義理の兄は、私を上沼の学校に行かせました。他の同級生に比べて背がとても高く、年上で、しかも日本語の話せない私にとって、それはとてもひどい経験でした。たとえ日本語がうまく話せたとしても、私の行いは全て他の子とは違っていました。他の子は、靴を履かずに下駄を鳴らしながら歩いていました。 私が履くと「このアメリカ人は下駄の履き方も知らないぜ」と言ってからかいました。そんなことは私をいらだたせました。「一体何がいけないんだよ」といつも思っていました。

私が当時「OK」と言えたことは、野球です。日本の少年達はグローブやバット、ボールを持っていましたが、野球のルールをよく知りませんでした。 私は彼らへ野球を教え始め、私にとってもとてもよい経験で、その結果、私は人気者になりました。約半年後には彼らはかなりうまくなっていました。近所の村とよく試合をしていましたが、その辺りではかなり強いチームになりました。

冬になると、カナダからスケート靴を持って帰ってきてたので、周りにスケートのやり方を教えました。その当時は、下駄にスケートの刃をつけていただけだったので、本当に滑れる人はいませんでした。私が最初に本当のスケートをやりました。ホッケーのスティックも持って帰ってきてたので、木のパックを使ってプレイしました。今でも、田舎に帰りその頃の少年達と逢うと、その話題になります。

これらは、私が日本の社会に溶け込むのにずいぶん役立ったと思いますが、それでもまだカナダとレモンクリークのことが気になっていました。私は和歌山県や他の県に帰った人たちはどうしているんだろうといつも気になっていました。1ここは上沼で、私の回りにはカナダ人は誰もいない。私は孤独でした。

6年生がはじまると、中学の先生だった義理の兄は、優秀な子供だった佐藤夫一さんを私の家庭教師にしました。 私の問題は日本語の能力が劣っていることだけでした。母のレッスンも役に立ち、思ったよりも早く日本語を吸収することができました。私が今まで習っていたこととは違っていました。1年か1年半くらいで、追いつくことができましたのです。

その後、羽佐間中学に進級しました。その頃には周りの日本人と何の違いもありませんんでした。言われる通りに座ったり発表したり、日本語でのレポートを書いたりも出来るようになりました。そんなことよりも冗談を交えながらでも会話が出来るようになり、私もすっかり馴染んでいました。 私は代数学など余り好きでない科目はいっぱいありましたし、まだ多くの漢字は読めませんでしたが。

高校では野球をやめバスケットボールをはじめました。何か違うことがしたかったのです。1952年に佐沼高校を卒業すると2、仙台市に出て、親戚の紹介で駐日米軍で働くことにしました。その頃はカナダ人だというだけで簡単に就職が見つかりました。 将校のクラブで働き始め、そこでカクテルの作り方などを学びました。私は日本人がよく言う水商売という仕事が嫌でした。 もっと堅い仕事に就きたいと思っていたので、CID(Criminal Investigation Detachment) に転職し3地下組織の犯罪取引を取り締まる通訳として働きました。5~6年後、上京することになりました。米軍は平和条約を締結していたため、引き上げを始めまていました。その頃、パン・アメリカン航空が顧客係を募集していたので入社し、以来ずっと旅行業界に居続けることになりました。

茶道

まだカナダに戻ることも考えましたが、日本での生活にも慣れ始めていました。友人も結構できましたし、その頃には生活や食生活も良くなり、飲み友達も出来ました。カナダから離れてずいぶん長いときがたっていましたが、カナダ人であるということに誇りを持ち、カナダ人であるという意識を失うことはありませんでした。

1967年、妻のかずえを日本に残し、一人でバンクーバーへ旅行に行きました。山が見たかったしバンクーバーの空気が吸いたかったのです。私はホテル・ジョージアにチェックインし、車を借りてバークィトラムまで車を走らせました。家族の残した農園は閉じられていて、ノースアンドクラーク道路に通じていましたしバーナビーの方はその時は分譲地となっていました。マウンテンビュー小学校にも立ち寄り、前で写真を撮りました。

 今から10年ほど前、リリー松下と偶然にも再会することが出来ました。リリーは友人と生徒達と日本に来ていました。友人から、リリーが私を捜しているという話を聞き、ホテルで再会することになりました。第二次世界大戦以来の再会でした。

ロイドさんと理子さん

私は娘の理子 キャーレンがリッチモンドにいるリリー松下の息子である日系三世のティムと結婚したことがとても嬉しく思っています。私には二人の孫がいます。13歳のブレット 賢造と10歳のはるみ松下です。私の一部がカナダにいるんです。私は一人息子で、カナダ生まれです。カナダに何か私の証拠を残したかった。戦後、カナダとの関係を切ってしまいたくなかったし、あのような形でカナダを去りたくなかったんです。カナダで育ち、学校に行き、友人もいました。 私はカナダの市民権を持っています。息子の淳と娘の舞子も望めばとることが出来ます。舞子には秀彰と利名という二人の子供がいます。 秀晃は4歳で利名は1歳です。

私はカナダの一世のことは分かりませんが、ほとんどの一世は日系三世や四世に日本との関係を持ち続けて欲しいと思っていると思います。アメリカの一世のように、カナダ人の一世だって同じに違いありません。日系人であるなら、日本に触れるべきです。きっと日本を身近に感じるでしょう。いい例が私が習っている合気道です。日系アメリカ人二世である牧山先生に習っていますが、彼も日本人の顔と名前、そして日本人としてのフィーリングを持っています。そう、このフィーリングが大事なことなんです。

* * * * *

私が東京の熊谷氏のマンションでよちよち歩きの孫の秀彰君にあった時、ちょっと彼の夢が分かったような気がしました。カナダでは、リッチモンドで育っている彼の孫のブレットと娘の理子 キャーレンにも会いました。彼の娘は彼女の祖父とは違った新しい世代の一世です。彼女が息子のブレットに託している望みや抱負や夢が、祖父母の熊谷孝志やまさこが65年前に熊谷ロイド 博志に託したものと同じ思いであるということにまだ気づいていないようでした。

訳注 :
1.日系カナダ人は和歌山県出身の人が多く、ロイド氏の親友も和歌山県に戻ったので後日随分と探したのですが見つからず、最近になってようやく会うことが出来たそうです。
2.この後、義理の兄のコネで東北学院大学に進学しましたが中退してます。
3.当時日本の警察には手が出せなかった、在日アメリカ人の犯罪などを取り締まる組織。

© 1996 Norm Ibuki

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