ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

ロサンゼルスに根付く、ウチナーンチュ・ジャーナリズム - その1

比嘉朝儀(ちょうぎ)さん(69)の一週間はロサンゼルス近郊のガーデナ市にある自宅の庭から始まる。自らがディスクジョッキーを務めるラジオ番組で今週のネタを考えるのは、沖縄桜や百合が咲き誇る庭にゆっくり腰掛けるのが一番だと、比嘉さんは語る。

「ハイサイ沖縄」というラジオ番組の収録を行う比嘉朝儀さん

比嘉さんの「ハイサイ沖縄」というラジオ番組は、週に2度、ロサンゼルスにある沖縄人社会の動静を伝えるコミュニティラジオだ。「今週は何を話そうかと、考えていることがとても楽しいんですよ。」と比嘉さんは語る。

ラジオの収録は、ロサンゼルス市近郊のロミータ市にあるTeam J Stationというラジオ局で行われる。このラジオ局は、全米で唯一、24時間日本語放送を行っている。ラジオ局の収録ブースで、比嘉さんは収録直前まで、その日話すネタがぎっしりと書き詰めてあるメモを丁寧に何度も読み返している。そして、「チェック、チェック、ワン、ツー、スリー」という比嘉さんのマイクチェックの後、収録開始だ。

「ちゃーがんじゅー、やみ、しぇーみー」進行を務める山川恒平さんのウチナーグチでの呼びかけに対し、「ちゃーがんじゅー、そーいびん」と同じくウチナーグチで比嘉さんが挨拶を返すところからラジオ番組は始まる。週に2度、土曜日と日曜日に放送されるこの30分のラジオプログラムの第一部は、ロサンゼルス近郊の日本人や沖縄人社会に関するニュースで構成されている。第二部では、比嘉さんによる、琉球王国や沖縄の歴史や文化の解説。普段は、寡黙な比嘉さんが最も雄弁になるコーナーだ。そして、この番組の目玉は、第3部、ウチナーグチのラジオ講座だ。「私のラジオ番組を通して、視聴者の方に沖縄を感じてもらいたいんです。特に、若い世代の人に聞いてもらいたい」と比嘉さんは語る。

「沖縄を語らせるなら比嘉さんほどの適任者はいない」という山川恒平さん

「ハイサイ沖縄」が始まったのは今から6年前。比嘉さんの相手役を務め、Team J Station社長でもある山川さんが、日系アメリカ人の視聴者に故郷を感じてもらえるような番組を作りたい、と考えていたことが発端だ。ディスクジョッキーの候補者捜しを始めた山川さんだが、比嘉さんに会ったとたん、比嘉さんによる沖縄プログラムのアイディアがひらめいたという。

「比嘉さんほど、沖縄に対する愛が深くて、沖縄に造詣の深い方はいないと思います。そして、完璧にウチナーグチが話せるのも、ロサンゼルス近郊では、比嘉さんくらいでしょう。僕も比嘉さんと一緒にラジオをやらせてもらって、今では沖縄人のように感じています」と福岡出身の山川さんは語る。

全米の新聞社が資金難やオンラインジャーナリズムに押され、次々に倒産する中、日系人社会に親しまれてきた日本語新聞も廃業に追い込まれている。サンフランシスコが拠点の日米タイムズは、2009年8月に63年の歴史にピリオドをうち、また、北米毎日新聞も、その2か月後に、廃刊となった。しかし、ロサンゼルスに基盤を置く、沖縄人コミュニティでは、比嘉さんのようなウチナーンチュによるジャーナリズムが根付き、次の世代に沖縄の文化や伝統を伝えていく一端を担っている。

比嘉さんは太平洋戦争勃発以前の1940年に中城で生まれた。戦争を体験し戦後の沖縄はとても貧しかったと記憶する比嘉さんは、「アメリカの豊かさというのにとても憧れていた」と語る。念願叶って1960年にウッドベリー大学で国際貿易を勉強するため、ロサンゼルスに移り住んだ比嘉さんは、同級生の日本人の学生が沖縄のことについて、何も知らないことに驚かされたという。「アメリカ人だけでなく、日本人の生徒まで、沖縄がどこにあるのか、そして、沖縄ではアメリカ食を食べるのか、日本食を食べるのか、ということを聞いてきたんですよ。」

大学卒業後は沖縄に帰り、地元の沖縄の高校で社会を教えたかったという比嘉さん。しかし、沖縄のことがアメリカであまりにも知られていない実態を目の当たりしたことが、比嘉さんのその後の人生を変えることになる。日本には帰らず、アメリカで沖縄の事を伝えていくことで、両国の架け橋になりたい、そう決心した比嘉さんは、ロサンゼルスにとどまり、貿易会社で働き始めた。

現在、北米沖縄県人会の会長を務める比嘉さんの最大の懸念の一つは、ウチナーグチの若い世代への継承と保存だ。「ウチナーンチュの血が流れているから、若い世代は生まれながらにウチナーンチュです。けれども、言葉は、私たちのウチナーンチュ文化を学び理解する上で、とても重要な道具なんです。」と、ウチナーグチを話して育った比嘉さんは語る。

カリフォルニアの若いウチナーンチュの間では、沖縄舞踊やエイサーといった活動が盛んだ。しかし、踊りや太鼓で利用される音楽はウチナーグチで歌われているため、ウチナーグチを理解しない若者達の踊りは、どこか薄っぺらさが感じられると、比嘉さんは語る。

沖縄言葉であるウチナーグチは、明治政府が1879年に沖縄を併合した際に、「野蛮な言葉」として禁止された歴史を持つ。ウチナーンチュ達は、日本の統治の下、ウチナーグチの公での使用を禁止され、学校では、ウチナーグチを話した生徒は、「方言札」というものを首からかけられ、処罰されたという。

第二次大戦後、アメリカ統治下での沖縄では、融和政策の一環として、ウチナーグチを含むウチナーンチュ文化が奨励され、沖縄返還後の沖縄では、戦前の沖縄のようにウチナーグチが禁止されるということもなくなった。しかし、ウチナーグチの文化は途絶えつつある。 2009年2月には、国際連合教育科学文化機関=ユネスコが、ウチナーグチの一つである八重山語を絶滅の危機に瀕する言葉として認定していて、保存が急がれている。

アメリカの沖縄人社会では、ウチナーグチは「過去の言語」となりつつある。1世によって話されているウチナーグチは、2世たちがアメリカで生活の基盤を築くにつれ、忘れ去られていった。そして、1世の孫、3世、4世の時代になると、完全にウチナーンチュはアメリカ社会に同化し、ウチナーグチを話す機会さえ失われていった。

カリフォルニアでも数少ない、ウチナーグチの話し手の一人である比嘉さんは、こうした事態を危惧し、2002年に北米沖縄県人会館でウチナーグチのクラスを始めた。 最初は7人から始まったこのウチナーグチの講座には、今では40人以上もの生徒が受講している。

沖縄のルーツを探るためウチナーグチの講座を受講するジェームズ・ホリーンさん

受講生の一人、ジェームズ・グシケン・ホリーンさん(24)。アメリカ人の父と14歳の時に沖縄からアメリカに移り住んだ母との間に生まれたホリーンさんは、自分のルーツである沖縄を知るために、ウチナーグチの勉強を始めたという。「ずっと自分が他のアメリカ人とは違うと思っていました。それと同時に、母や祖母がウチナーグチを話していても、意味が分からず、とてももどかしく感じていました。でも、母も祖母も沖縄のことについてはあまり話してくれなかったので、沖縄という場所は自分には遠い場所でした」とホリーンさんは語る。

そのホリーンさんが沖縄を初めて訪れたのは、2008年。沖縄の人たちは皆親切だったと語るホリーンさんだが、日本語もウチナーグチも話さないホリーンさんにとって、言葉の壁は大きかったという。「言葉が分からなかったので、自分が沖縄という文化の一部だと実感することはできませんでした」ウチーナグチの授業はホリーンさんにとって容易なものではないが、ホリーンさんは、ウチナーグチの保存にできるだけ協力したいと考えている、という。

比嘉さんは、ホリーンさんのような若者が一人でも多く増えるように望んでいる。「ちょうど、ラジオを始めたときと、ウチナーグチの講座が始まったのが、同じ時期だったので、ラジオ講座を始めようと思ったんです。そうすれば、より多くの人にウチナーグチを知ってもらえますからね。」

その2 >>

© 2010 Ayako Mie

journalism Los Angeles NikkeiMedia okinawa radio uchinanchu