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二つの国の視点から

アケミ・キクムラ=ヤノ ~ ミクロとマクロの視点で日系人史を再構築する人類学者-その2

>>その1

戯曲「賭博場」で扱った衝撃のテーマ

私がキクムラを知ったのは、1985年2月8日、当時、ロサンゼルスのサンタモニカ通りにあった EWP(現在はリトル・トウキョウにある)でのことだった。この頃、ロサンゼルスに住んでいた私はEWPの作品は欠かさず観にいっていた。この日、彼女が書いた戯曲、「The Gambling Den (賭博場)」という作品が上演された。アメリカ日系人社会における被差別部落の問題を取り扱った芝居で、私は椅子からすべり落ちるほど強い衝撃に襲われた。アメリカで日本の被差別部落のことを考えさせられるとは思ってもみなかったし、日系社会にそのような差別があることを知らなかったからである。それも演劇という媒体を通して、というのがショッキングだった。

サンタモニカ通りにあったEWPのビル (撮影:須藤達也)

この劇は、Play in Progress、つまり進行中の段階の作品で、試行錯誤しながら完成させていこうというものだった。そのため、公演後に役者、演出家、脚本家らと観客との間で討論会がもたれた。私も思わず手を挙げてキクムラに質問した。

「アメリカ日系社会の被差別部落のことを知って驚きました。ご存知でしょうが、日本ではタブー視されている問題です。そういった問題をアメリカで取り上げようと思われたきっかけは何ですか」。キクムラの答は次のようなものだった。

「私はUCLAの我妻洋教授のデシです(彼女は、ここだけ「弟子」という日本語を使った)。教授の下で人種や差別の研究をしてきました。アメリカには黒人問題というおおきな人種問題がありますから、このようなテーマをアメリカ人に提起しても必ずわかってもらえると思って書きました。私は芸術が好きですから、戯曲という形で、差別がいかに愚かなことであるかを表現したかったんです」

なるほど、と納得した。人が他国に移住する理由はさまざまだろうが、貧困と差別が大きな要因であろう。でも、往々にして、そのどちらもが移住先で移植されてしまう。この芝居をみるまで、そういうことに気づかなかった。

日系社会にひそむ差別への思い

日系アメリカ人の歴史をちゃんと知らなければいけない。彼女の芝居をみて強くそう感じた。翌日、私は早速 UCLAの図書館にいって、この問題を調べた。我妻洋がHiroshi Itoの名前で書いた「Japan’s Outcastes in the United States(アメリカにおける日本の被差別部落)」という論文を読み、戯曲の背景を理解した。後に、あべよしおが書いた小説『二重国籍者』や、ワカコ・ヤマウチの戯曲、「And the Soul Shall Dance(そして心は踊る)」が日系社会の差別に若干触れていることを知ったが、正面きってこの問題を扱っている研究も文学作品も少ない。証明が不可能、同和問題が悪用される、意味がない、などの理由で避けられることが多いからだ。

『絶望の移民史』(毎日新聞社、1995)という本がある。移民史を研究している高橋幸春が書いた本で、この中に、「満州に住めば差別は解消する―下村春之助」(『更正』1941年6、7月)という資料が掲載されている。下村はこの中で「差別観念とは個人意識ではなく社会意識であるが為に、個人がその社会を離れればその差別観念は個人の心の中から遠のいていくのである」と切々と論じて移住を勧めている。

だが、実際には、個人がその社会を離れても、差別観念は心から離れていかない。社会が個人についてまわるからだ。移住先の社会が小さい場合、むしろその観念が増幅されることもある。満州の場合は国策としての移住なので、アメリカの日系移民と同じではないが、移民と差別意識というのは共通の問題だ。日系社会の場合、とりわけ差別の対象になったのは、被差別部落と沖縄の出身者である。沖縄出身者への差別は、キクムラが母、千枝のことを書いた著作にも出てくる。彼女の差別への関心は、我妻洋の教えだけでなく、そんな身近なところにもあっただろうと思う。

1995年に全米日系人博物館を訪ねた時、キクムラにあの戯曲の台本について聞いた。どこにいったのか自分でもわからない、とかわされてしまった。ともあれ、私が日系アメリカ文化、あるいはアジア系アメリカ文化にずっとこだわっているのは、彼女の戯曲を見たことが大きなきっかけだったことは間違いない。

アケミが開いた母の心

『Through Harsh Winters』

キクムラの研究者としての業績は、『Through Harsh Winters』からはじまった。彼女の母の個人史で、同書は『千枝さんのアメリカ』という書名で、我妻洋の妻、我妻令子によって日本語に訳出され、 1986年に日本で出版された。アケミの師である我妻洋は前年に病で倒れ、訳本を見ることなく他界している。

千枝はもともと日本語でアケミのインタビューに答えているので、訳者自身も千枝に会って話を聞き、広島出身の千枝の日本語を忠実に再現している。また、訳者の解説も著書のかなりの部分をしめているので、キクムラと訳者の共著、という形になっている。一度、訳者から話をうかがったことがあるが、英語を千枝の言葉で再現するのは大変な作業だったらしい。

『Through Harsh Winters』は、厳しい冬を通して、という意味だが、「冬来たりなば春遠からじ」、あるいは「苦あれば楽あり」という日本の諺を英語にしたもので、我妻洋の助言でつけられたタイトルだ。千枝の幼少期から、結婚、渡米、収容所、収容所後の生活、と年代順に千枝の歴史を追っている。それは、時に赤裸々で、本を出版してからアケミが他の兄妹から批判されたというのも、わからないではない。

キクムラもそれを考慮してのことであろうが、原著では両親とも本名が使われていない。

母方の藤村家は佐藤、父方の菊村家は田中になっており、父親の名前は三郎で本名通りだが、母親はミチコになっている。それでも、特に一家の貧しさや、父親の三郎が博打に浸り、ついには刑務所に入ったこと、娘たちの半数が離婚したことなどは、他の兄妹にとっては「恥」にしか映らなかったようだ。

でも、読者としては、飾られていない話ほど魅力的なものはない。麻薬中毒にかかったように博打にのめり込んでいく三郎の様子や、結婚や離婚をめぐる母と娘の葛藤などは、現実性があってひきこまれる。また、1924年以降は移民が禁止され、写真結婚の形で日本から女性を呼び寄せることもできず、日系社会に女性が少なかったため、日系の男たちは性的に鬱屈していた。千枝の語りから、そんな社会の様子もよくわかるのである。

千枝は、渡米する前に同郷の菊村三郎と結婚し、排日移民法が成立する前年の1923年、19歳のときに家族の反対を押し切って三郎と一緒に渡米した。アメリカの生活は想像以上に大変だったが、家族の反対を振り切ってアメリカに行ったため、弱音を吐くこともできず、家族にずっと連絡をとらなかった。母親の死さえ知らず、千枝はずっと家族に対して負い目をいだいていた。彼女が日本の兄妹と連絡をとるようになったのは、アケミが論文執筆のために日本に行くことになったからである。

アケミの人類学が、ずっと閉ざされていた母、千枝の心を開いた。学問の力も捨てたものではない。千枝は日本を訪れることはなかったが、その後も日本にいる兄妹と文通を続け、1989年に85歳でこの世を去っている。

続く>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第6回目からの転載です。

© 2009 Association Press and Tatsuya Sudo

akemi kikumura yano anthropologist EWP

このシリーズについて

海外に住む日系人は約300万人、そのうち在米日系人は約100万人といわれる。19世紀後半からはじまった在米日系人はその歴史のなかで、あるときは二国間の関係に翻弄されながらも二つの文化を通して、日系という独自の視点をもつようになった。そうした日本とアメリカの狭間で生きてきた彼らから私たちはなにを学ぶことができるだろうか。彼らが持つ二つの国の視点によって見えてくる、新たな世界観を探る。

*この連載は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」 からの転載です。