ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/7/16/ambai-to-watashi/

アマンバイとわたし ~アマンバイ社会とその自然に育てられ~

1956年に開拓されたパラグアイのアマンバイ移住地。ここに生まれた著者は、1970年代頃の移住地の貧しくとも、豊かな自然と穏やかな人情があった様相を振り返り、その記憶をたどります。

パラグアイ国アマンバイ移住地50年誌に書いた、私の思い出

どこまでも続く青空の下、赤土の土手をおしりで滑り降りる。顔にあたる風が涼しい。夢中に滑っていると、おしりのあたりがスースーして来て、「やばい、またやぶってしまった。」と今までの爽快感が一気に罪悪感に変わってしまう。私は、シリグエロの学校に通う小学1年生である。行きは母が途中まで送ってくれるのだが、帰りはこうして一人ブラブラとアマンバイ山脈にむかって坂道を下っていく。

今日は、土手上に一直線にきれいに生えている植物をみつけた。1列ひきぬいてみた。ズボッ、ズボッ、ズボッ・・・なんと快い感触だろう。明日からの楽しみがまた一つできた。ある日、ひとりの女性がうちを訪ねて来た。その後、母に「あなたが毎日引きぬいているのは、あの人が大事に育てているとうもろこしだよ。よそさまの物をだめにしてはいけないよ」と言われた。あんなに楽しいことが悪いことだと知りがっかりした。母の、しきりに頭を下げる姿が目に焼きつき、「とうもろこしは絶対に引きぬかないぞ」と誓った。

それでも、毎日退屈な日はない。

下校時になるとお腹もすいてくる。今日は、道路際の麦の穂を何本かいただくことにしよう。中身を口に入れてよく噛んでいると、チューインガムのようになり、ほんのり甘さも出てくる。この辺りは、その時々に熟しているものがたくさんある。バナナ、ココ、コーヒーの実、インガ、ピンド、グアバ、モンテグアビラ・・・おいしいおやつだ。

1965年撮影。移住者によるコーヒーの乾燥作業

牛の群れを見つけると、仲間に入れてもらい、のそのそと一緒に帰る。

疲れている時は、大型トラックの荷台にぶら下がり、ゆらゆらと運んでもらう。

今日は、姉とその友人に言われ、近所にポンカンをもらいに行く。

「おんちゃん、こんにちは。ポンカンちょうだい。」

「おっ。えらいね。あんたはちゃんとあいさつができるんだね。あんたにだけやるからな。」と隠れている姉たちをチラッと見て、おんちゃんは両手いっぱいにポンカンをくれる。

そんな、シリグエロから離れる日が来た。小学4年生の時である。日本語学校が統合され、町に出ることになったのだ。新しい日本語学校の先生は、アスンシオン市の三育学院から派遣された、若いがひげのある男性だ。

ひげ先生との授業1日目。「学校にはぞうり(ビーチサンダル)で来てはいけません。先生には「です・ます」をつけて話すように。」と言われた。きのうまでは、普段着にぞうりばきのまま来ていたのに、それがいけないのだろうか・・・私たちの話している言葉は日本語ではないのだろうか・・・。

日系人として日本の『書』の伝統を教育の場で継承

「キーッ」とひげ先生の自転車のブレーキ音がすると、校庭で遊んでいた、小学3年生と私たち小学4年生は教室に飛び込む。宿題はやってきたのだが、答に自信がない。もし、間違っていて、遊んでいたのがバレるとゲンコツか、休み時間なしか、居残りか、もしかすると、また暑い中トイレの前に立たされるかも知れない。休み時間には、みんなと一緒にドッジボールに熱中し、思い切り騒ぎ、走り回り、汗びっしょりになって遊んでいる先生が、再び授業になると、鬼のような先生に変身する。

ひげ先生は日本に帰られてからも、手紙で、日本のことをいろいろと教えてくれる。毎回、封筒のスペースいっぱいにきれいな切手が貼られている。それも、手紙の内容同様に楽しみの一つだ。

スペイン語学校は相変わらず朝が早い。太陽が昇る前に家を出る。薄暗い中、最初の角でトラックに乗った日本人のおじさんに会う。今日も頭を下げると、にっこりして手を振ってくれた。市営墓地を過ぎると、パラグアイ人のおじさんが、店先でマテを飲んでいる。あいさつをして通り過ぎる。今日も暑くなりそうなので、帰りには、このおじさんに水をもらうことになるだろう。少し行くと、日本人のお店がある。いつも、おじさんかおばさんが店の前を掃除している。そして、必ず声をかけてくれる。それから、びわの木がたくさんある公園をぬけると、警察署、PJC公園、学校と続いている。びわの実が朝日を浴びて、オレンジ色に輝いている。きのうも学校帰りにびわを取っていて、若い兵隊に怒られた。今日もチャレンジしてみよう。

小学5年生になった。今年も三育学院から派遣された男性の先生だ。身だしなみや言葉遣いは、ひげ先生にみっちり仕込まれたので、もう注意されることはない。
日本語学校には、時々お父さんたちが出てきて、大工仕事やペンキ塗り、校庭の整備などをしてくれる。この日だけは畑にも行かず、店はお母さんに任せて、学校で仕事をしてくれるお父さんたちは、とてもたのもしくかっこいい。

朝早く、料理をする母の気配と、おいしいにおいで目を覚ます。今年も霧がかかった中での寒い運動会だ。それでも、入場行進が始まるころには客席も埋め尽くされ、家族が見守るなか競技が進められていく。昼食の時間は何よりの楽しみだ。家族全員で、母が作った弁当を食べながら、「今年もかけっこはビリだったね。」「組み立て体操、かっこよかったよ。」「午後は兄ちゃんたちががんばらんとね。」と会話がはずむ。午後の一般の部が終る頃には、みんな真っ赤に汚れている。

小学6年生になった。今年も同じく三育学院派遣の先生だ。ここ三年間、日本語学校では、ハーモニカ、リコーダー、ピアニカ、アコーディオン、木琴など、色々な楽器を習い、今では音符も読めるようになった。音楽以外にも、習字、石鹸彫刻、木版画、手旗信号、凧揚げ、ソフトボール、そしてレンガ工場で焼き上げた粘土細工、何日もかけて彫り上げたトーテンポール、休みのときに行われた日本の社会や歴史の授業・・・と、色々な体験をさせてくれた。そんな学校と、先生と、同級生達とも、もうすぐお別れだ。

1970年頃のパレード。アンバイ県庁前にて。

中学生になっても通学路は変わらない。いつものおじさんやおばさんに見守られて、平和な毎日を送っている。最近、時々、「女の子だから、そういうことをしてはいけないよ。」とか、「それは不良がすることだよ。」と友人の親や、通りすがりの日本人、近所の大人から注意される。

日本語学校も、中学最後の年の後半にさしかかった。担任が体調を崩し、ほとんど学校に来ない。授業がないので、卒業文集をつくることにした。題名、内容、各係等を決め、授業のときよりもまじめに文集作成に取り組んでいる。校長先生や、他の先生方もすべて私たちにまかせてくれている。卒業式直前、日本語学校での思い出がいっぱいつまった『旅立ち』は出来上がった。校長先生はじめ、今までお世話になった先生方にコメントを寄せてもらった。日本から原稿を送ってくださった先生もいる。こうして、アマンバイ日本語学校第一回中学卒業生として、充実した日本語学校生活は終わった。

そして、1年が経ち、スペイン語学校も高校を卒業した。卒業式を終え、アスンシオンへ向かうバスの窓から、住み慣れたPJC(ペドロ・ファン・カバレーロ)の町・・・小さい頃遊んだシリグエロの国道・・・青く茂った山々・・・を眺めている。

1956年3月、アマンバイへの出発前に横浜移住斡旋所前で記念撮影

*アンバイ移住地については、下記の添付書類(Ambai.pdf) を参考ください。

© 2006 Sachi Nagano

執筆者について

パラグアイ、アンバイ移住地生まれ。小学4年生のとき、移住地から町の学校に移り、新しい環境と教師のもと充実した日本語学校生活を過ごす。1982年にはスペイン語高校を卒業し、地元から500Kmほど離れた首都アスンシオンへと旅立った。

Updated July 2009

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