ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/6/30/rainichi-shugakusei/

第3回 1930年代の来日留学生の日本体験―メアリ・キモト・トミタ『ミエへの手紙』より―

メアリ・キモト・トミタ(1918~2009)著、『ミエへの手紙』(Dear Miye: Letters Home From Japan 1939-1946) (1995)は、国境を超えて移動した人々の経験を考える上で、私たちに多くのことを教えてくれる。これは、1939年に留学生として来日した日系アメリ カ二世のメアリが、1946年までの約7年間に及ぶ日本滞在中に、カリフォルニアに住む親友の日系二世ミエと、メアリと同じ二世留学生の親友ケイに宛てた 書簡を収録したものである。共通の背景を持つ同性・同世代の友人に向けて、感情の赴くままに書かれたこの書簡は、メアリの心のうちを生き生きと語ってい る。そして、手紙に表現されている彼女の心の葛藤や揺れは、来日留学生の実生活をより豊かに物語る。

1930年代の来日留学生の日本体験について、これまでの先行研究では、留学を促した日米双方の越境教育という理念や、受け入れ機関の教育方針が主 に論じられてきた。特に早稲田国際学院の留学生については、二世のアイデンティティの二重性を認めないという国家主義的な学院の教育方針に翻弄されて、二 世留学生は日本人として戦時の日本に協力するという姿勢をすりこまれる傾向があったと指摘された。学校の教育方針による影響は確かに大きかったと思われ る。しかしながら、もっと個人の内面に分け入ってみたとき、戦時下の国家のイデオロギーに揺さぶられながらも、主体的に考え、感じ、日本や日本人を理解し ていこうとする過程があったと思う。『ミエへの手紙』からは、生死の問題を肌身で感じる戦時下の緊張感をともないながら、異文化を理解しようとする一人の 人間の煩悶と真摯な態度を窺い知ることができる。したがって、この著作を分析することで、先行研究とは異なる視点から、来日留学生の経験について考察する ことができると思われる。

メアリは1918年カリフォルニア州のシリーズという農村に、和歌山県出身の父、木本楠太郎と山形県米沢出身の母とくの次女として生まれた。兄弟姉 妹は他に兄と姉、妹がいた。地元のモデスト短期大学を卒業後、日本留学を決める。1939年、6月渡日し、力行会会長の永田稠宅に下宿して早稲田国際学院 に通った。1941年3月には東京女子大学に進学する。その後、日米開戦が懸念され、7月に帰国を予定するも延期となり、12月にようやく龍田丸に乗船し 帰路に着いた。しかし、12月8日、メアリを乗せた船は真珠湾攻撃のために引き返し、彼女は更なる日本滞在を余儀なくされる。配給を得るために祖父の戸籍 に入ったため、意図せずして市民権を失い、また日本の家制度の下で結婚に失敗する辛さを味わう中、戦中と戦後の混乱を生き抜いて、1946年10月、よう やく市民権を回復し、翌年1月、念願の帰米を果たした。

書簡から推測すると、メアリは来日前と来日当初、一般の日本人というのは受け身的で自己犠牲的、そして中には好戦的な者も多いというイメージを持っ ていたようだ。しかし、そのイメージは現実の生活の中で変化していく。最初の揺さぶりは、来日して間もない8月、母の故郷山形県の米沢へ向かう列車の中で 起こった。駅で停車している列車の窓から彼女が見たのは、白い布で覆われた骨壺を抱える兵士と亡くなった兵士の家族の姿である。そこには死という辛い現実 を前にした家族や知人の悲しみと悲痛な静けさ、それでも黙して現実を受け止めようとする諦めの混じったような強さがあるとメアリは感じた。彼女はここにア メリカでは見たことのない「日本人」の姿を見る。日系社会に育ち、日本の両親を持ち、日本人的だと自身を捉えていたが、彼女は自分がその田舎の人々の内面 を理解することができず、自分と日本人とが精神的な面でやはり大きく異なることに衝撃を受ける。そして、人々が持つその静けさや心の奥深くにあるものが一 体何なのか、理解したいと考えた。

米沢での出来事のあと、早稲田国際学院での学生生活が本格的に始まった。日本語を学び、留学生と交流し、下宿先の永田家の息子伊佐也(イザヤ)や友 人と銀座に出かけ、日本の生活にも慣れていった。その中で日本人の友人や知人の言動に理解を示し、また反発しながら、彼女の日本人像を作り上げていく。伊 佐也の弟の預志也(ヨシヤ)が友人の戦死を知らせる手紙を受け取り、「どうせ僕たちは長生きできないのだから、遊べるだけ遊ぼう」(p.79)と言ったそ の言葉から、彼女は青年たちの多くが預志也のように死を覚悟し、変えることのできない宿命を諦めながら受け入れていることを実感する。そして好戦的という 日本人のイメージに対して、彼らが好き好んで戦争に行くわけではないことを感じ取る。

日本の青年の心情に共感し、彼らの本当の気持ちを彼女なりに理解し始めていたため、イデオロギー的な固定観念には疑いを示した。たとえば、早稲田国 際学院の学院長が書いた文章を読み、日本人は天皇に忠誠を誓い、自己犠牲の精神にあふれているとの主張に対して違和感を示している。「私の頭が悪いのか偏 見に満ちているのかもしれないけど、日本人はそれほど理想主義的でも自己犠牲的でもないと思う。逃げ道がないから仕方なく戦争に行き、それを愛国的な言葉 でごまかしているだけだわ」(p.80)。早稲田国際学院の教育方針は、日系二世のアイデンティティの二重性を尊重するよりも、大和魂や忠孝一本の原理な どを教え、二世を日本人化することを意図していたと言われ、その影響で二世留学生の中には、大日本帝国の国民として皇国のために戦うと誓う者も少なくな かったという。しかし、メアリはそのような教育方針に染まらず、あくまでも自身の体験から日本人を理解していこうとした。

メアリは留学当初、米沢で見た田舎の日本人の黙して死を受け入れる姿に衝撃を受けて、彼らの心を理解したいと思った。そののち、日本の生活に慣れて いく中で、自己犠牲的と言われる日本人の真の姿は実はそうではないと思うようになる。そして、最終的には彼女は戦争とそれに伴う死を受け入れようとする伊 佐也の心情に共鳴する。そのことは、出征直前に彼がメアリに書いた別れの手紙の内容とそれに対する彼女の反応に表れている。彼も陸軍工兵として1941年 7月に戦地へ送られた。別れの手紙には、伊佐也の心の奥底の思いが綴られていた。平和を望んでいるのにも関わらず、人々を虐殺し町を破壊するために兵器を 造っている虚しさ、そしてこの不条理な戦争から逃れられないやり切れなさ。それでも、美しい日本を愛するからこそ戦争に行く。こう述べる彼の言葉にメアリ は心を打たれた。

伊佐也もメアリ自身も、当時の日本を覆う愛国的雰囲気に影響されていないわけではなかっただろう。しかし、メアリが彼の言葉に心を震わせ、彼の心情 に共感できたのは、約二年間、実体験から日本の人々の心を理解しようと努めてきたからである。そして、不条理な戦争がもたらす死の恐怖を目前にし、それで も運命を受け止め、生きようとする一人の人間の姿に共鳴することができたのは、彼女自身もまた、その時代を生きる者として虚しさや将来への絶望感を感じて いたからである。

このように『ミエへの手紙』は、1930年代の留学生の一人であるメアリが、心の迷いや葛藤を繰り返しながら、自分の体験を通して、肌身で戦時下の 日本の人々の内面を理解していこうとした軌跡を記している。メアリは序文で、彼女が書き続けた手紙が、彼女と同様の経験を持つ人々の心にも、またそうでな い人々の心にも何か訴えかけることができれば非常に嬉しいと述べている。彼女の願い通り、『ミエへの手紙』を読むことで私たちは国境を越えて移動する人々 の異文化理解の仕方とそれに付随する複雑な心の動きについて、より深く理解することができるのではないだろうか。

© 2009 Mariko Mizuno

このシリーズについて

関西居住の学徒が移民・移住に関わる諸問題を互いに協力しあって調査・研究しようとの目的で。2005年に結成された「マイグレーション研究会」。研究会メンバー有志による、「1930年代における来日留学生の体験:北米および東アジア出身留学生の比較から」をテーマとする共同研究の一端を、全9回にわたり紹介するコラムです。

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執筆者について

京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士後期課程。専門はアメリカ研究、日系アメリカ人史・文学研究。論文「不忠誠を選択した帰米二世の物語―Edward T. MiyakawaのTule Lakeから見えるもの」(AALA Journal No.12、アジア系アメリカ文学研究会、2006)、「翁久允のアイデンティティと移民地文芸論」(『人間・環境学』第16巻、京都大学大学院 人間・環境学研究科、2007)

(2009年6月 更新)

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