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日系三世、日本刀鑑定家のマイク山崎氏 - その1 マンザナー製の短刀を家宝に

リトルトーキョーの日系カフェ、3月某日の午前10時、マイクさんと待ち合わせた。朝から顧客とアポ、そして、お昼前にもまた別の約束があると言う彼の仕事は、日本刀の鑑定家である。

日系三世のマイクさんの夫人は日本生まれの真由美さん。彼女と第二次大戦中の日系人の収容所体験についてのドキュメンタリー映画「Toyo’s Camera」についてメイルで情報交換していた時、彼女が「私の夫は、マンザナー収容所で作られた短刀を所持しています」と教えてくれた。その短刀を、 ぜひとも拝見させてほしい、持ち主のマイクさんに会いたいとすぐに思った。

件の短刀を見せていただくのは後のお楽しみにして、マイクさんはなぜアメリカに生まれ育った自分が「日本刀の鑑定家」となるに至ったかについて教えてくれた。

彼の父方の祖父母は和歌山県から、母方は静岡県と福島県からアメリカへ移住してきた。そして、戦争中は母方の祖父母と母、叔父はマンザナーに収容されていたそうだ。

祖母と強い心のつながりを感じていたマイクさんの子供の頃からの役目が、彼女が日本から持ち込んだ短刀を手入れすることだった。短刀を磨き続けることで、彼の中に日本の魂が育まれていったのだろう。

いつしか日本伝統文化に関わる仕事に就きたいと望むようになったマイクさんは、日本刀の鑑定家の道を歩むことになる。そして、テキサスで開催された日本刀の展示会で出会った鑑定家に、誘われるまま日本へ渡った。

日本では格式ある日本美術刀剣保存会(NBTHK)との縁を得て、日本とアメリカを行き来しながら日本刀の鑑識眼を磨いていった。1998年 NBTHK40周年記念鑑定会では、200人以上の参加者の中から5位に入賞、さらに2001年9月の月例大会では、日本人以外で初の優勝者の栄冠に輝い た。

日本刀を知るということは、その陰にある数百年に及ぶ武士の歴史を知ることでもある。日系とはいえ、アメリカ人のマイクさんの方が、日本生まれの筆者よりも確実に日本史に詳しいことは明白だ。日系アメリカ人と日本人については、彼自身、以下のようにコメントした。

「日系移民は戦前、アメリカに渡って来た。日本の日本人たちは戦中、戦後を経て、価値観を大きく転換させた。しかし、日系人たちは明治、大正時代の 古い価値観を温存したまま今に至っている。つまり、正直で働き者であるべきという価値観だ。日系三世の僕も、日本人よりも日本的だと自己を分析している」

そして驚いたことに(驚いた筆者が無知なだけなのだが)、ここアメリカには日本人が泣く泣く手放した名刀が数多く存在するのだと言う。

「日本には、先祖代々譲り受けられた名刀が数多く存在した。しかし、第二次大戦後、日本に進駐したアメリカ軍は、日本刀を武器だと見なした。そこで マッカーサーは刀狩りを命じたのだ。最初は焼き捨てることになっていたが、日本側の有志の『歴史ある名刀を残したい』との請願により、焼き捨ては免れた。 そして、集められた一部の刀が進駐軍の兵士らの手みやげとして、アメリカに持ち込まれたのだ」

刀が渡った先はオーストラリアやイギリスらの戦勝国だったが、そのほとんどがアメリカだった。

悲劇は、この刀の価値を十分に認識している人が少ないことだ。ある時、鑑定を頼まれたマイクさんが案内されるままに、依頼主の庭に行ってみると、畑 に豆のつるが絡まった日本刀が刺さっていたこともあった。また、刀のつばの模様が美しいからと、アクセントにとコンクリートに埋めたアメリカ人もいた。そ のつばの価値が8万ドル、9万ドルもすることを知らずに。さらに「この刀は良く肉が切れるのよ」と、ターキーを切り分けるナイフに日本刀を使っていた白人 女性もいたそうだ。まさに「もったいない」話である。

一方で、親から譲られた家宝として、大切に日本刀を保存しているアメリカ人も少なくない。

「一般的にアメリカ人は大雑把で歴史に関心がないと思われているかもしれないが、ヨーロッパから渡って来た人々の子孫として、アンティークに敬意を表する人たちも数多い」

さて、いよいよ、マイクさんが家宝として扱っているマンザナー製の短刀を見せていただく番である。

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© 2009 Keiko Fukuda

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