ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/4/15/kenjinkai/

県人会との密接なかかわりの中で得た貴重な体験

「鹿児島県人会」…その名前を呼ぶだけで、たくさんの記憶があふれ出てきます。

その思い出の1つに、リトル東京のファースト・ストリートにある、中華料理店「サン・クウォ・ロー」の2階で行われていた県人会主催の食事会があり ます。当時子供だった私たちは、一世の両親に連れられ、この会食に参加しました。当時は子供を預ける習慣はなく、両親は私たちをベビーシッターに預けて外 出することは決してありませんでした。私たちにとって、県人会の会食に出かけることは、年間を通して外食を楽しむ数少ない機会でした。私たち子供は、食事 が運ばれてくるとすぐにそれを平らげ、大人の目を盗んで階段を駆け下り、リトル東京の路地に飛び出していきました。そして外が真っ暗になって寒くて遊べな くなる時間まで、鬼ごっこやかくれんぼをして遊びました。

夏には、レッグ・レークやエリシアン公園で県人会のピクニックに参加したのを覚えています。参加した人々は徒競走やゲームに興じ、全員が何かしらの 参加賞を手にするのです。トイレットペーパーや石鹸、台所用スポンジなどの生活用品などがその賞品でした。家庭で炭酸飲料を口にすることは当時の私たちに とってはぜいたくなことでしたが、その時ばかりはアルミ製の桶のすっかり冷えた水の中に手を突っ込み、飲み放題のしゅわしゅわする至福の飲み物に手を伸ば していました。また、くじ引き大会の景品には、くま手の替え刃やシャベル、園芸用ホース、花壇用草花が用意されており、一等賞があたると送風機、芝刈り 機、チェーンソー、テレビなどをもらえました。県人会のメンバーのほとんどが庭師か主婦だったので、実用的な物が景品に選ばれていたのです。

毎年春には、ウエストウッド公園ではバレーボールのトーナメント大会が催され、ロサンゼルスとオレンジ郡の各地域からメンバーが集り競いました。ウ エストロサンゼルス、ガーデナ、サン・フェルナンドからは、複数の地域代表チームが参加していました。中には、2,3チームごとに、各チームの最も優れた 選手を数人選び、新しいチームを編成し、決勝戦に出場するところもありました。我がモントレーパーク・チームの選手は、30歳以下の選手が2、3人ちらほ らいる程度でほとんどが中年か高齢者でした。ですから、ネット越しに猛スピードで打ち込まれるスパイクには、私たちのチームはお手上げだったのです。

日曜日の朝はお弁当作りに始まり、鹿児島県人会の野球チームと他の日系チームの試合を観戦するためにセンチュリー・シティ近くのランチョ公園に行く ことが、私たち一家の週末の恒例行事でした。私たちは外野席に座り、毎シーズン鹿児島チームに声援を送っていました。試合が終わると、みんなで一緒に食べ られるようにと、母が朝早くから準備したお弁当をチームに差し入れし、選手全員と一緒におにぎりやおかずをほおばり、楽しいひと時を過ごしました。

また、ある夏には鹿児島からの交換留学生が数日に渡って私の家にホームステイに来ました。父は、私を交換留学生と一緒にツアーバスに乗せ、ディズ ニーランドなどのロサンゼルス名所ツアーに同伴させてくれました。県人会の年配者が遊園地を案内するより、年齢の近い私が一緒にいた方が留学生も楽しいだ ろうと父は考えたようです。ディズニーランドでマッターホーン・ボブスレーやパイレーツ・オブ・カリビアンの順番を待つ長い列に並びながら、私たちはお互 いの国の生活について話し合いました。

鹿児島県人会は1899年に設立され、婦人会は1909年に立ち上げられました。今年県人会と婦人会は、それぞれ110周年と100周年を迎えます。社交行事を楽しむ現在の県人会の風潮に比べ、会が設立された当時は、必要性に駆られて人々は集まっていました。

宮内武幸氏はかねてから、そして現在も鹿児島県人会の歴史家として活躍しています。宮内氏は、会の歴史家に就任した1967年以降、全入会者の名前 を記録しています。宮内氏が集めた情報には、会員の氏名、住所、生年月日、鹿児島県内のどこにルーツがあるか、といった内容が含まれています。厳密な出身 市町村名と人数に始まり、メンバー全員の年齢に至るまで、宮内氏は各データの1つひとつを照合し、記録に残したのです。

1983年に鹿児島県人会の会長となった宮内氏は、県人会の未来を懸念するようになりました。当時、メンバーの80%以上が60歳を超えていまし た。宮内氏は、新しいメンバーが加わらない限り、県人会の存続はあり得ないことを悟ったのです。鹿児島からの新規移住者はほとんどなく、メンバー増員のた めには、アメリカ生まれの二世を招き入れる以外に道はありませんでした。

若い世代が会議のために集められ、鹿児島ジュニアクラブが設立されました。当時のジュニアクラブメンバーは全員が高校生でした。母体団体の県人会同様、ジュニアクラブも社交行事に焦点を合わせて運営されるようになりました。

ジュニアクラブ主催の活動には、サンタモニカ・ビーチでのビーチパーティ、サンフェルナンド・バレーでのソフトボール大会、ベニスで行われたダンス パーティなどがあり、運転免許を取ったメンバーらは、マンモス・マウンテンへスキー旅行に出かけました。また、県人会主催のピクニックやバレーボール大会 を手伝うボランティア活動もありました。1984年の夏季オリンピックでは、日本語が母語の年配者も競技観戦ができるよう、チケットフォームを記入する手 助けをしました。ジュニアクラブのメンバーは全員が日本語学校に通う新二世で、日本語と英語のバイリンガルだったのです。鹿児島弁を1つの言語と捉えれ ば、何人かは3ヶ国語を話すトライリンガルだったと言えるでしょう。

ジュニアクラブの若者が他の地域の大学に通うようになり、また別の者は大学を卒業し仕事に就くようになると、ジュニアクラブの会員数も減少し始めま した。ジュニアクラブが企画していたアクティビティは、他の地域団体などが提供するそれと何ら変わらないものでした。メンバーは引っ越先の日系団体に加入 し行事に参加する方が、わざわざ町を隔てたところから運転してやって来るよりずっと都合がよかったのです。その後、多くは結婚しそれぞれ個々の人生を歩む ようになりました。

かつてジュニアクラブメンバーだった私たちは家庭を持ち、祖父母の招待で再びピクニックに参加するようになりました。子供たちも夏の太陽を浴びなが ら芝生の上を駆け回り、賞品を集め、冷たい炭酸飲料がいっぱい詰まったアルミの桶に手を突っ込んで、楽しいひと時を過ごしていました。

衰退していく県人会へのジレンマが解消されることのないまま、時代は1993年になりました。その頃、県人会メンバーの80パーセントは70歳を超 えていました。そして一般会員の減少だけではなく、会を担い、行事の運営ができる年齢層の減少もみられるようになりました。県人会の「青壮年部」として知 られるユースクラブのメンバーにおいても、その全員が50歳に近い年齢にさしかかっていました。宮内武幸氏は、再び英語を母語とする子供たちの県人会参加 を呼びかけました。しかしながら、この時の会議に現れたのはほんの数人でした。

どうすれば県人会に参加したいと思ってもらえるのか、私たちはそれぞれアイデアを出し合いました。議論を重ねた結果、私たちの唯一の共通点は、鹿児 島の伝統遺産を共有していることだという結論に達したのです。社交行事のための県人会はもはや必要ないのです。私たちの伝統がどこから来ているのか、人々 は知りたがっているのです。ほとんどの人が日本についての一般的な知識を持っていましたし、より深く日本を知りたい人には英語で書かれた歴史書もありまし た。しかし、鹿児島のルーツに関しては、知りたくても何の知識もありません。そこで県人会は考え方を変え、ジュニアクラブの方向性の転換に踏み切ることに しました。人々が集い、鹿児島について知識を交換し合う場としてジュニアクラブを再編成することを決めたのです。この新しい方向性を取り入れるにあたり、 私たちは全員一致でジュニアクラブの呼び名を鹿児島ヘリテージクラブと改めることにしました。そして組織の再編成のために、新しい委員を選出しました。

鹿児島ヘリテージクラブの年間行事として、春と秋にイベントを開催することにしました。イベントの焦点となったのは、メンバーに鹿児島について学ぶ 機会を提供することでした。また、鹿児島県史、鹿児島出身の著名人、県人会史、日系移民、そして日本刀などといった様々な題材を扱った講義も行われまし た。ヘリテージクラブは県人会ゆかりの地を訪れるために遠出することもありました。最初の鹿児島移民であるカナエ・ナガサワ氏が居住しワイン農園を始めた 地、サンタ・ロサへの旅、インペリアル・バレー・パイオニア博物館、カマリロのコースト・ナーセリー(園芸所)、全米日系人博物館、リトル東京を訪れまし た。また、日本人がお花見をするように、私たちもお弁当を持ち寄り、桜の木の下で食べる会も開きました。そのほかにも、自分の家系図を作るワークショップ や、薩摩料理教室、盆栽の作り方講座などがありました。毎年恒例でサンタ・アニタ競技場で、鹿児島ヘリテージクラブ主催の「Day at the races」という奨学金資金を集めるための活動を行っていました。

1999年、県人会設立100周年祭への参加は、ヘリテージクラブにとって喜ばしいことでした。盛大な祝賀会への参加に加えて、鹿児島からの訪問団 と会うことができたのです。また、鹿児島県人会の歴史を日本語と英語でまとめた、ハードカバーの記念誌の作成に協力することができました。

ヘリテージクラブの20周年を記念して、2003年春には鹿児島への旅が企画されました。ツアーに参加したのは、初めて日本の地を踏む者、鹿児島出 身者、専門職従事者、自営業者、主婦、退職した年配者、学齢期の子供たちでした。訪問団は、日本庭園を訪れ、お茶会に参加し、温泉に浸かったりと、典型的 な観光をグループで楽しむ一方、グループツアーのない日には各自、鹿児島のカウンターパートに会いに行きました。また、県人会の協力で鹿児島県庁と連絡が 取られ、代表者会談が行われました。アメリカの青年会議所関係者は鹿児島青年会議所と会合を持ち、学齢期の子供たちは鹿児島の小学校を訪問する機会に恵ま れました。そして訪問団全員が、専門的、文化的、そして個人レベルの交流をすることができました。そして、参加者それぞれの家族のルーツがある土地を訪れ る日も設けられました。親戚か市の職員の方に案内されて、私たちはお墓参りに出かけ、先祖を敬うことができたのです。そして鹿児島の受け入れ先の方々には 近隣地域を案内していただいたり、鹿児島ならではのおもてなしを賜りました。訪問団として参加した私たち一人ひとりにとって、この旅は忘れられないものと なりました。

鹿児島ヘリテージクラブが年4回発行している英文のニュースレターは、メンバーの他にも鹿児島に興味のある全ての人に配布されています。ニュースレ ターには、会長からのメッセージやイベントカレンダー、クラブメンバーについて書かれた記事が掲載されています。ニュースレターの人気コーナーは、ヘリ テージクラブの歴史家であり、ニュースレター編集者のティム・アサメン氏による、鹿児島の興味深い事実という独占記事です。年2回開催のヘリテージクラブ イベントに参加できないメンバーも、その多くはアサメン氏の記事の購読を楽しみにしているのです。そしてこのニュースレターは、ヘリテージクラブのメン バーの増員に多大な貢献をしています。ニュースレターは南カリフォルニア地区にとどまらず全米で、そして海外でも配布されています。

現在、ヘリテージクラブのメンバー構成は、二世、三世、日本人、若い世代の専門職従事者、定年退職者、大学生などで、素晴らしい多様性を帯びていま す。県人会メンバーの増員のため、県人会の高校生対象奨学金受賞者には、ヘリテージクラブの5年間無料メンバーシップが与えられるようになりました。無料 メンバーシップをきっかけに若い人々が会に残り、県人会が今後も存続していくことを願ってのことです。

現在の若者が未来のリーダーになるのです。ヘリテージクラブで培った絆を力にして、新しい世代が県人会を継承し、先人が築いてきた遺産を繋いでいくことを私は願っています。

© 2009 Margaret Miyauchi-Leong

コミュニティ 県人会 鹿児島県人会
執筆者について

マーガレット・ミヤウチ‐レオン氏は、グレーター・ロサンゼルス地域で新二世として生まれ育ちました。ミヤウチ氏は、幼少時から現在まで鹿児島県人会に積 極的に参加してきました。また、ロサンゼルスとゆかりあるたくさんのアジア系アメリカ人団体へのかかわりに誇りを持ち、参加を続けています。

(2009年4月 更新)

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