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アメリカ料理界で活躍した新一世の記録: カリフォルニア州サウスパサデナ在住の佐藤了さん — その2 LAの名店で初の日本人総料理長就任

>>その1

東京オリンピックの後に、欧州派遣制度でスイスへ渡ったシェフの佐藤了さんは、フランス、イギリスを経由して1971年、アメリカ、ニューヨークの プラザホテルに就職した。「ヨーロッパと違い、あまりにもアメリカの料理は雑だ」という実感を抱きながら、誘われるままにシカゴへと移った。

シカゴのマキシムでしばらく働いた後、当時は世界一の高層ビルだったジョン・ハンコックセンターの95階にある、その名も「95th」というレスト ランに開店と同時に働き始めた。「100階建てのビルの44階以上が住居。その下はオフィスでした。そのビル全体が一つの街のような構成になっていたんで す」

シカゴではとにかくよく働いた。「休みの日でも、手伝ってほしいと言われれば働いたし、ケータリングの仕事も手伝いました。寝るのだけが楽しみでした。1年間で1万ドル貯めました」。70年代の前半の1万ドルと言えば、今の価値にして一体いくらになるのだろう。

日本に一時帰国して,芳枝夫人と見合いをしたのはシカゴにいた時だった。会って3週間で結婚を決め、アメリカに戻った。「シカゴは僕の好きな街でし た。友達もいるし、お金も稼げる。しかし、冬は零下40度にも60度にもなるほど寒い。ここは子供を育てるには環境的に厳しすぎるということで、西海岸へ 転居することを決めました」

最初はサンフランシスコに系列店に異動の希望を出した。しかし、そこに空きはなく、最終的にロサンゼルスのダウンタウン、アルコタワー内のフランス料理のレストランへの異動が決まった。

「アルコの上の人に、『すぐに来い』と言われて、3日でシカゴから移りました(笑)。働き始めて、すぐに上に上がりました」。佐藤さんの言う「上」 とは、総料理長という最高のポジションを意味する。「当時は景気が良くて、お皿はバンク・オブ・アメリカのロゴ入りの特別な物を使っていました。1日に作 る食事は1万食分。けたはずれの量です」

総料理長に就任した佐藤さんをすべての従業員が歓迎したわけではなかった。「日本人は僕くらいでしたからね。英語も上手じゃない僕が一体何年続くか、皆が賭けをしているというのを聞いて、これはもう意地でも続けてやろうと思いました」

羽田空港を出発する時に「自分が納得するまでは帰国できない」と心に決めたのと同じ大和魂が、佐藤さんの中で静かに燃えた。

周囲の見方を良い意味で裏切るように、佐藤さん手腕を発揮するようになる。時間をかけて、自分のレシピに変更し、食材も納得いくものに取り替えて いった。さらに、今では一般的になったハリウッドボウルのバスケットに入ったお弁当を、佐藤さんのアイデアで誕生させた。「売り上げに多大に貢献したた め、オーナーがリムジンでハリウッドボウルまで連れて行ってくれました」

ダウンタウンの社交場でもあったレストランには、さまざまな有名人が訪れた。女優のエリザベス・テイラーや、イギリス首相のマーガレット・サッ チャー、ソ連のミハエル・ゴルバチョフ、ジョージ・ブッシュ大統領など。1979年には、当時のトム・ブラッドレー・ロサンゼルス市長から「シェフ・オ ブ・ザ・イヤー」を授与された。

1980年には、スポーツの祭典と同じく4年に1度開催される料理オリンピックのアメリカチームの代表にも選ばれた。ドイツのフランクフルトで開催された本大会では何と「温かい料理」の部門で金メダルを獲得した。
「15、6人いたアメリカチームのメンバーの中で生粋のアメリカ人はたった1人でした」。日本人はもちろん、佐藤さんだけだった。

ロサンゼルスの格式あるレストランでの地位、「シェフ・オブ・ザ・イヤー」の名誉、そして料理オリンピックでの金メダルと、次々にアメリカンドリームを達成していった佐藤さんだが、実はその時まで日本へ引き揚げることも考えていたそうだ。

「子供が小学校に上がる頃には日本に帰ろうと女房とは話していました。実際、日本のテーマパークの開園に合わせて、そこの総料理長としての面接を何度も受けていたのです。しかし、その段階になって、うちのが、アメリカがやはりいい、と言い出したんですよ」

その3>>

©2009 Keiko Fukuda

chef Chez Sato culinary food restaurant Ryo Sato