ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/12/30/

アメリカに移住した被爆日本人女性の記録—カリフォルニア州マリナデルレイ在住の笹森恵子さん—その3

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手術成功後、アメリカで看護婦に

ニューヨークのマウントサイナイ病院で無事に手術を終えた被爆女性たちが日本に帰国する前、彼女たちの滞在費用を集めたジャーナリストのノーマン・カズン ズさんは一人ひとりと面接をした。「帰ったら何をしたいか?」と聞かれた笹森恵子(ささもりしげこ)さんは、「静岡で看護婦になるつもりだ」と答えた。

東大病院で手術を受けた時の医師や看護婦の優しさが印象に残っていたことから、自分も目指そうと決心し、谷本牧師の紹介で静岡県浜松市の病院に見習いで入ることも内定していたのだ。それを聞いたカズンズさんから「それなら、アメリカで挑戦してみないか」と提案された。

「私はもともと計画的に物事を運ぶ方ではありません。谷本先生に病院を紹介されれば深く考えずに従い、アメリカで手術を受けられると言われれば素直に参加 しました。その時、カズンズさんに『アメリカで』と言われた時も、不思議と抵抗感がなく、気づいた時には『それでは帰って両親と相談します』と答えていた のです」

「いつまでも親はお前と一緒にはいられない。だから、自分で決めなさい」という父の答えも、恵子さんの背中を押した。また、彼女の胸には、マウントサイナ イ病院で触れた人々の善意が深く刻み込まれていた。そして、1958年の春、26歳を目前にして恵子さんはプロペラ機で太平洋を渡った。

最初はニューヨークのカズンズ家の友人の家に滞在して、高校に通学した。当時の恵子さんの英語は「イエス、ノー、ハウアーユー」程度だった。十代の生徒た ちの中で勉強を続ける事になったが、校長が恵子さんを迎える前に全校生徒に事情を説明していたこともあり、「変な目つきで見られたりすることも一切なかっ た」そうだ。

その後、カズンズさんの計らいで、コネチカットのウォーターベリー病院の付属看護学校に寄宿生として編入。高校教育は夜間のアダルトスクールで修了した。

「看護学校では生徒も実地で研修していました。忘れられないのは、帝王切開で赤ちゃんを取り出した時。感動のあまり涙が止まりませんでした」

他の学生との交流も楽しい思い出だ。寮のリクレーションルームには、ピーナツバター、ジャム、パン、スナックが豊富に置いてあり、レコードも自由に聞け た。そこで皆と歓談していた時のこと。「テレビに日本の女性が掃除機をかけている映像が映ったんです。それを見て、『オー、日本にも掃除機があるの?』と 言った子がいました。私はとっさに『あなた、何言っているのよ。日本はジャングルじゃないのよ』と答えました」。50年前の当時、周囲には恵子さん以外、 東洋人はいなかった

恵子さんはニューヨークのマウントサイナイ病院、セントルークス病院に勤務した後、短かった結婚生活で一人息子のノーマンさん(養父であるノーマン・カズンズさんから命名)を授かり、1962年に出産した。

そして、息子が小学校3年になるまで、母子はコネチカットのカズンズ家に身を寄せた。

「ノーマンは王子様のような生活をさせてもらいました。48エーカーの敷地のお屋敷には、テニスコート、プール、馬小屋もありました。しかもプールはノーマンが溺れては危ないからと、7歳になってから造ったほどでした」

実の娘と孫のように愛情を注いでくれたカズンズ夫妻は、何不自由ない生活の保障も提供してくれた。

しかし、いつまでも好意に甘えてはいられないと思った恵子さんは、幼いノーマンさんと共に家を出て「独立」する。しばらくボストンの病院で働いた後、「オ イルショックで、寒い冬を越すのが大変だったから」ことを契機に1980年にロサンゼルスに引っ越した。その2年前にはカズンズ一家もコネチカットからカ リフォルニアに転居していた。

ロサンゼルスでの就職先はシーダースサイナイ病院のナーサリー(新生児室)。ベビーナースとして働いていた恵子さんは「ラバーン・アンド・シャーリー」で活躍していた女優、シンディ・ウィリアムズと出会う。

「彼女の赤ちゃんをナーサリーでお世話した後に、専属のベビーナースになってほしいと言われました。最初はお断りしましたが、ご縁があって受けることにな り、2番目の男の子の時も再び呼ばれてお世話をしました。今でもクリスマスパーティーに招待されるなど、家族ぐるみのお付き合いが続いています」

シンディ・ウィリアムズ以外にも、「トップガン」や「ドアーズ」で知られる俳優、バル・キルマーの子供たちのベビーナースも務めた。「私のことを知った彼 が話をしたいと、平和団体を通じて連絡をくれたのが最初。親しくなってから、彼に子供ができたのでベビーナースを引き受けました。どの仕事もお金のために 受けたのではありません」

そして今ではベビーナースの職を引退して、被爆体験を少しでも多くの人に知ってもらおうと講演に走り回る日々を送っている。

その4>>

2008年5月、スイスのジュネーブで若者たちに被爆の体験を語った

© 2009 Keiko Fukuda

被爆者 ヒバクシャ
執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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