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日本にて:ある日系カナダ人の移住そして引き揚げ-その1

一年前に日本に到着してから、私は日系カナダ人に日本での体験談を聞きたいと思っていました。ある夫婦にインタビューを断られていたので私が書いた合気道の記事を読んで熊谷ロイド博志さんが連絡をしてくれたことに感謝しています。

Lloyd and Aikido pals

熊谷さんは65歳の日系カナダ人で、1931年3月15日にバンクーバー州バークイトラムで生まれました。両親の武志とマサコ(旧姓・佐々木)は二人とも宮城県で生まれ、最初にカナダに移住した及川甚三郎氏の住んでいた東和町の近くにある上沼で農業を営んでいました。厳しい経済状態ゆえに、当時の多くの日本人移住者と同じように、武志も妻と二人幼い娘の初子とトミエを上沼に残してカナダに移住することを決断しました。

及川氏のカナダでのサクセスストーリーは、上沼にいた武志さんにもひと財産をつくる夢を芽生えさせ、その計画はうまくいくように思えました。武志さんは、米を作るのに必要な厳しい単純作業をいつも一生懸命やっていましたが、彼の父が酒に溺れ、3,4回も結婚をし、多くの資産を失っていたため、家族の将来に不安を持っていました。武志さんには、カナダへ行くことが、将来家族を脅かすであろう悪い状況を回避する良い方法のように思えたのです。カナダへ移住することで、当分の間家族に再会出来ないことが分かっていましたが、その悲しみに耐えながらも、多くの希望を胸に武志さんはカナダに向かいました。

長い船旅の末、バンクーバーに到着しました。周りアドバイスに従い、バンクーバー近くのポートムーディーで製材所で製材の仕事につきました。一生懸命働き、日本に送金し借金の返済に充てました。その結果、長い間の希望がかない、思ったよりも早く妻を呼び寄せることができました。それは、武志さんが日本をたって5年後の1930年のことで、ついにカナダで妻と再会を果たしました。

バークイトラムにはあまり日系人の家族がいなく、熊本から来ていた松下家と仲良くなりました。武志さんは、松下家との交際と友情に感謝していました。松下家は、いちご、アスパラガス、ラズベリー、干しぶどうを育てており、鶏を飼うための12エーカーの土地を持っていました。当時、土地は安かったので、武志もいつかは土地を持ちたいと思ってました。

初期の日本からの移住者は、米を作っていた経験から骨の折れる単純労働を得意としていました。日系人はブリティッシュコロンビア州のバンクーバー島の下に位置するニューウェストミニスター、ストロベリーヒル、ライオンズアイランド等、ちりぢりに生活していました。ガルフ島にあるクォドラ、ソルトスプリング、ホーンビー、ガブリオラ、またウッドフィブレ、ケマインナス、 ウクルレット、ビクトリアにもいくつかの家族が住んでいましたが、ほとんどの移住者はバンクーバーのパウエルストリートの繁華な日本人街にいました。

そして、翌春(1931年)、松下氏の家で出産が行われ、博志さんが生まれました。出産後は、松下家の長女リリーさんの横で眠っていました。4歳になると、博志さんは他の国のほとんどの子供と同じように、カナダに移住してきたばかりの子供たちと一緒にマウンテンビュー小学校に通い始めます。両親は家ではずっと日本語を話していたので、日本語も学びました。博志さんは、学校が終わると漢字の書取を10個行い、母が夕食の買い物から戻ってきた後にそれをチェックするのが日課でした。

1939年、姉の初子が上沼で結婚することになり、博志さんは初めて 日本を訪れました。それは、父にとっては15年ぶりの帰国でした。日本へ6ヶ月間滞在しました。この期間は中国と戦争を行っている最中で、上沼という田舎でさえ、赤紙という徴集礼状を受け取った若い人たちを戦争に送り出していました。友達や近所の人は、国旗を振りながら若い兵士を駅まで見送りにいきました。電車が着き若い兵士が乗り込むと、群衆は「バンザイ」と手を振り上げながら三回叫び見送り、その間兵士は敬礼をし続けていました。

ここから先は、熊谷博志氏ご本人が語ってくれたお話です。

*****

母はよく、「博志ちゃんも日本に行ったら、日本人はカナダ人より小ぎれいでおしゃれだと分かるよ。」と言ってました。カナダでは一年中同じ服を着ているけど、日本人は春夏秋冬の四季で異なる服を着るし、日本人はもっと小ぎれいにしているからって。それに、「博ちゃんは日本にいったら競争出来ないよ、日本人は賢いからね」ともよく言っていました。でも、私は ここには住みたくないと思いました。すべてが時代遅れなんです。

我々の農場ではいちごを箱に詰めて東部の内地に送っていました。一部のいちごはニューウェストミニスターから来た中国人が持っていきました。両者とも英語が話せなかったけれど、その中国人は漢字が読めたため、父と意志の疎通が可能でした。日本と中国は戦争中だったので、中国のこと、戦争のことそして平和への願いについて漢字でよく筆談をしていました。彼は車を持っていて、我々は持っていませんでした。

戦争が始まるまでは、皆同じでした。多くの同級生が農園に来て手伝ってくれました。夏の間は、草むしりや耕すのに追われていました。草むしりは、1ドルとか50セントとかのちょっとしたお小遣いになるので、僕の同級生は、映画を見に行きたいときや欲しい物があると、時々農場に来てました。

父や母は「草むしりをこの端から向こうまでやれば10セントや20セントをあげるよ」と言って。みんな草むしりをよくやったものです。戦争が始まるまでは、みんな友達で、よく一緒にたむろっていました。

でも、戦争がはじまると、今までのように付き合ってくれる人もいましたが、中には私を嫌うようになるものが出てきました。正確には、私のことを嫌っているわけではなかったのですが、「いいかい、あんたはジャップだろう」って言うんです。それまではそんな人種差別はまったくなかったのにです。それは、誰のせいでもなく、日本が真珠湾を爆撃したからです。 多くの人達は私に同情していましたが、「熊谷、ジャップは中国で何をしてるのか知ってるか?」と言われました。そんな奴もまた、周りにはいるものです。私の両親は一日中、農園で働いていたため、外の世界とあまり接触がありませんでした。私は、両親にはこのようなことは何も話しませんがでしたが、かなり心配していました。先生は立派な人達で私が差別されている時は助けてくれました。

荷造りをして、農園を去るよう言われたのは、たしか学校が休みの時だったと思います。2~3日の猶予しかありませんでした。荷造りをしたことと窓に板を釘ではり付けたことを覚えています。

6月にヘイスティングパークに行きました。我々は大きなバスに乗せられました。バスが学校の前を通り過ぎると、友達がみんないて、手を振ってくれてました。いつ戻って来れるか誰も分かりませんでした。両親は一時的な事だろうと考えていました。 私は当時新聞配達をしていて、配達ルートを教えてくれた人はヘイスティングパークについていろいろ教えてくれました。

日本人はむしろきれい好きな国民です。日本人はしょっちゅう洗濯をしています。ある白人は私に「こんなに洗濯物がすぐに出て来るなんて、まるで赤ん坊が100人も生まれているようだ」とよく言いました。 スロキャンバリーまで船で連れて行かれ、そこで2ヶ月間テント生活をしレモンクリークに連れて行かれました。そこで4年間を過ごでしました。戦争が終わるまでに、私は5年生、6年生、7年生、8年生を終わらせました。

父はレモンクリークでの最初の冬に結核になり、ニューデンバーの病院に送られ1943年に亡くなりました。 母は「日本がまだ戦争に勝っている間に死んでしまって良かった」と言ってました。父の精神は日本人そのものでしたから。

その2>>

訳注:
1. 武志は彼の父の散財の血筋も心配してようです。
2. 現在のパウエルストリートは治安があまり良くないらしく、当時の賑わったリトルトーキョーの跡形はありません。
3. 私にはこの冗談が理解出来ないのですが、読者の方はいかがですか?

*本稿は、10年以上前にトロントの『Nikkei Voice』という新聞に掲載されたものです。熊谷ロイド氏は2004年11月にお亡くなりになっています。

© 1996 Norm Ibuki

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