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難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。

事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その時、鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。

内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考えた内田は、自分以 外の若者を少しでも多くカリフォルニアに派遣させたいと望んだ。そして、ある農園から25人の日本人を受け入れる約束を取り付けた。

鹿児島に戻った内田は、人々にカリフォルニア農業の素晴らしさを語った。しかし、いかにして渡米希望者をアメリカに送り込むか、その手段が見つから なかった。調べていく中で、アメリカに「難民救済法」という法律があることを知った。これは難民21万4千人の枠を設け、以下のように定めたものだった。

「迫害もしくは迫害されるという脅威、天災、または軍事行動のため、自身の平常居住する地を離れ、その地に帰れずに再定住ができず、生計のため、あるいは輸送のために緊急の援助を必要とする者で、共産主義者でなく、また共産主義者の支配する国あるいは地域にいない者」

内田は「天災」という部分に目をつけた。台風を始めとする自然災害の被災者としてなら、日本人をアメリカに送り込める、と。難民受け入れ枠にはアジアの3千人が含まれることがわかった。この枠を獲得するにあたっては、日系米国人市民連合のマイク正岡が貢献していた。

しかし、他のアジアからの移民に先を越されてはもともこもない。難民として永住権を取得するには、米国市民のスポンサーが必須となる。内田は永住を希望している人数に対応するため、カリフォルニア各地の農園にスポンサー支援要請の手紙を書き送った。結果的に14の農園が永住権スポンサーを承諾した。

実際に申請を開始すると、米国政府は彼らが実際に天災で住居を失った難民かどうかを確認するために、係官を日本各地に派遣した。調査官に貧しいイ メージをアピールするために、炭焼き小屋が自分の家だと説明した申請者もいたそうだ。大卒の学歴を中卒だと偽る者もいた。各自がアメリカ移住を夢見て必死 に「難民」を演出したのだ。

調査の結果、申請が認可された人々は次々と太平洋を渡っていった。内田の出身県である鹿児島からの移住者は1955年から1956年にかけて渡航、その数は最終的に3百名にものぼった。彼らはアメリカでの農業を実体験し、やがては故郷に錦を飾ることを夢見ていた。しかし、その多くがアメリカを定住の地として選ぶこととなる。

次回から、難民として米国移住してきた3名の人生をご紹介する。(文中敬称略)

その2 (宮内武幸さん)>>

© 2008 Keiko Fukuda

Kagoshima nanmin post-war immigrants shin issei