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ブラジルの日本人街

第11回 東洋街形成と一世リーダーたち(1) -田中義数-

世界のどの移民史の局面でも、エスニックタウン形成の初期には、強力な指導力をもった大物リーダーが存在した。サンパウロ東洋街創設にかかわった日系大物リーダーといえば、まず思い浮かぶのが田中義数(1909~1979)と水本毅(1920~1989)であろう。

写真11-1: かつてシネ・ニテロイのあった大阪橋(2007年12月筆者撮影)

すでに書いたように(第6回「東洋街の形成と発展①」)、1953年、シネ・ニテロイがリベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通りを少し下ったと ころ(現在の大阪橋の位置)に開業したことによって(写真11-1)、このエリアに日系商店が集まるようになり、のちに東洋街が形成される契機となった。 シネ・ニテロイは、ブラジル最初の本格的日本映画専門館であり、二階以上にレストラン、ホール、ホテルを備えた、当時の日系コミュニティ最大の多目的娯楽 施設であった。ブラジル日本文化協会センターが完成するまでは、ここで各種パーティーや美術展が開かれ、コミュニティ社交の中心でもあった。このシネ・ニ テロイを創立したのが田中義数である(写真11-2)。

田中は、1909年、愛媛県南山崎郡大平村(現在の同県伊予市)に生まれた。1926年、21歳の時に両親、弟妹とともに渡伯。主としてモジアナ鉄 道地方やパラナ州サンタ・マリアーナのコーヒー農園で働いた後、1935年に同州ウライで雑貨店を経営するようになる。1938年に農産物の仲買いに転 じ、1943年にサンパウロに穀物取引業者として本店を設けるほどになった。

農産物仲買商は、当時の農業移民の都市化へのステップであった。『ブラジル日本移民八十年史』は、「1920年代になると、商才があり、多少の資金 力も有する農業移民の中から農産物仲買いを始めるものが出てくる。扱う商品は、米、コーヒー、少し下っては棉が主なところで、最初は日本人移民の生産物を 集めて精選工場に運ぶ、小規模な仲介業者として出発している」と、日系仲買商の発生について述べている(日本移民80年史編纂委員会, 1991, p.356)。田中は穀物の先物取引を通じて、事業家としての頭角を現わした。

写真11-2: 東洋祭りにのぞむ田中(右から4人目)(池崎一人氏提供)

穀物の先物取引は、心身ともに過酷な競争である。田中の友人であった山本勝造(実業家で、サンパウロ人文科学研究所創立者の一人)の表現を借りる と、田中は「サンパウロでも一番荒っぽいツバロン(人食い鮫)の街といわれたサンタ・ローザのど真ん中で毎日キッタハッタで叩き上げ」たと言う (ACAL, p.33)。田中の妻つた子夫人も、その頃「毎晩、ふとんが濡れるほどの寝汗でした」というような緊張の連続だったことを証言している(同, p.33)。それだけに当れば巨大な利益がもたらされた。彼を知る人物のだれもがその度胸と先見性、そして抜け目のなさを指摘するが、それらはこの頃の生 活で養われたものだろう。

度胸と先見性でのし上がってきた田中が、次に目をつけたのが映画だった。先のつた子夫人は次のようにも証言している。「うちのはフェイジョン(豆) とミーリョ(とうもろこし)等穀物の仲買人をやってたんですが、それはもう頭の痛くなるような値交渉の連続で、それに飽きたんでしょうか。突然映画館をや ると言い出したんです」(同, p.52)。また、映画を選んだ動機として、「何よりも日系人に健全な楽しみを考えたのだと思います」(同, p.33)と証言している。当時、日系コミュニティには勝ち負けの争いがまだくすぶり、日系住民たちは何よりも明るい話題や娯楽を求めていた。時はまさし く日本映画全盛期だった。

写真11-3: 大阪橋のたもとにある田中の胸像(2008年1月筆者撮影)

シネ・ニテロイ開業後、映画人気とあいまって、のちに東洋街として成長していくエリアにはどんどん日系商店が進出してきた。1965年には、現在の リベルダーデ文化福祉協会(ACAL)の前身であるリベルダーデ商店街親睦会が結成され、田中が初代会長に就任した。水本毅という稀代の女房役がいたこと もあって、この親睦会時代に東洋街の発展の基礎がつくられた。具体的に言うと、大阪橋・三重県橋・上塚周平橋の建設やすずらん灯の設置、日本庭園造成な ど、東洋街のインフラが整えられた。この頃、親睦会によって、毎年運動会も開催されている。

田中は才気煥発、如才のない性格で、その小柄な身体から、ブラジル人たちには「タナキーニョ」(小さいタナカ)と呼ばれ親しまれたという。こういっ た娯楽施設経営とともに、60年代初めにはダンボール製造会社を立ち上げ、晩年は植林事業にも手を広げていた。日本文化協会の創立会員の一人であり、同協 会の理事も長く務めた。この移民の風雲児ともいうべき田中も、病には勝てなかった。1978年11月に胆のうの摘出手術を受けたが、肺炎を併発し翌年1月 4日永眠した(日伯毎日新聞1979/01/06)。

一方、シネ・ニテロイは、都市再開発でリベルダーデ大通りに移った後、1988年12月20日、ひっそりと閉館した。映画の時代は去ったが、田中と シネ・ニテロイが与えた夢は大きかった。多くの人が、シネ・ニテロイの建設がなかったら東洋街もなかったと指摘する。あるいは、東洋街はまた別のものに なっていたということも想像できよう。田中はまさに「東洋街のパイオニア」であった。かつてニテロイビルがそびえていた大阪橋のたもとには、田中の胸像 (写真11-3)が建てられている。


参考文献
日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』移民80年祭典委員会

ACAL(1996)Liberdade. ACAL

『日伯毎日新聞』7456号(1979/01/06)


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© 2008 Sachio Negawa

Brazil issei japantown yoshikazu tanaka

このシリーズについて

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。