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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2007/4/27/brazil-nihonjinmachi/

第3回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(3)-戦争の嵐と戦後の混乱、そして復活へ

ブラジル最初の日系教育機関である大正小学校がサン・ジョアキン通りに移った後も、コンデ界隈の日本人街は発展し続けた。1930年代後半から1940年ごろまでが、その全盛期であったといわれる。

    このころのサンパウロ市の邦人社会も、1914~15年時代のまずしさから、おいおいぬけだして、コンデの住民たちも「坂を上がって」コンセリェ イロ・フルタード全盛時代となり、コンデ・ド・ピニャール、タバチングェーラ、イルマン・シンプリシアーナへとのびていった(半田, 1970, p.572)。

1933年頃のコンデ界隈の日系人口は約600人と推計され(同, p.572-573)、すでにかなりの日系商店がたち並んでいた。当時の新聞広告からいくつか拾ってみると、コンデ・デ・サルゼーダス通りの入り口に5階 建てのビルを構えていた中矢商店や日系最初の旅館といわれる上地旅館のほか、常磐旅館、青柳亭、村上歯科医院、金城山戸歯科医院、国井商店、渡辺銃砲店、 羽瀬商店、遠藤常八郎商店などがある。

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1933年にサンパウロの都市部で生活するに日系人は、600家族3000人に達していた(80年史, p.127)。これらの都市部の日系人は、ほとんどが1917~1918年ごろに地方からサンパウロに出てコンデ界隈に集住したものであった。これは、就 労機会の多かったサンパウロ中心部に近く、帝国総領事館、海外興業事務所、ブラジル拓植組合事務所など日系人にとって公共性の高い機関にも近かったこと、 その上に家賃が安かったことなどがあげられる。この頃の日系人の居住地は、コンセリェイロ・フルタード通りを越えて、西にエストゥダンテス通りやガルヴォ ン・ブエノ通り、ファグンデス通りに延びつつあった。後にリベルダーデ地区に日系教育機関が集中していたのも、こういった日系人の集住と共通の要因であろ う。

この頃のコンデ界隈の日本人街に関心を寄せたブラジル人研究者がいた。1930年代にサンパウロ政治社会学院で、シカゴ派都市社会学をドナルド・ パーソンに学んだオスカル・アラウージョである。彼は、1930年代末のコンデ界隈の様子をブラジル人のまなざしによって次のように描写している。

    この通りの商店はおおむね日本人たちによって営まれ、好奇心をそそられる東洋的な雰囲気をかもし出している。そこでは、「味の素」や「信用カ レー」などといった日本からの直輸入品とデリケートで興味深い装身具、日本人だけがなしうる洗練と習慣に簡単に出会うことができる。そして、商店の広告と 看板だろうか。一部であるが、特別な印による表現、日出ずる国の文字によって書かれたもの。こちらには日本人ペンションの看板、あちらには日本人ホテル、 そして向こう側には散髪屋や洗濯屋があるといったぐあいである。八百屋、牛乳屋、菓子屋、家具屋、靴屋、薬局、本屋や銀行まで、すべてがそろっている (ARAÚJO, 1940, p.237)。

このコンデ界隈は、ブラジル人研究者が注目するほど、日本人街としての様相を呈していたことが知られる。このエリアの日系住民に対して、突然立ち退き命令が発せられたのは、1942年2月2日のことである。治安上の理由からということであった。

それまででも、ジェッツリオ・.ヴァルガス政権において1937年からはじまったエスタード・ノーヴォ(新国家)体制下*においては、同化主義のイデオロギーが支配的であり、日・独・伊の枢軸国系の住民には風当たりが強かった(住田, 2000, pp.127-129)。

1938年12月に外国語学校が全面的に閉鎖され、1940年1月には外国人登録制度が決定、鑑識手帳の取得が義務付けられた。また、1941年8 月には外国新聞の発行が禁止される。このような状況の中で、同年12月の太平洋戦争開戦を迎えることとなる。太平洋戦争勃発後、翌1942年1月に日本と ブラジルの国交は断交、それに伴い大使館など在外公館は閉鎖された。9月6日にはやはりコンデ界隈の日系住民を対象に、10日間の期限付きで第2次立ち退 き命令が発令されている。すでに7月3日には日本の政府機関が引き上げており、日系人を保護する機関はなかった。

このコンデ・デ・サルゼーダス通りと交差するボニータ通り(現トーマス・デ・リマ通り)で日本書籍や輸入レコード、学用品など扱っていた遠藤商会のME氏(1922年サンパウロ市生まれ)は、次のように証言する。

    「1942年でしたか、保安局から退去命令が出て、24時間以内にコンデを出て行かなければならないということなんです。兄貴といっしょに警察へ行って、自分たちはここで兵役まで終えたブラジル人だと主張しました。でも、警察官に「日本人の顔をしたヤツはみんな日本人だ」と言われ、結局自分たちの 店をたたんで出て行かなければならなかったんです。」

閉館する前の総領事館から各日系商店と主だった家庭へ「大国民として襟度を失わずに…がんばるよう」という文書が配布されていたが、日本語も話せず、コンデの日系人はただ黙したまま、次第にちりじりになっていったという(ACAL, 1996, p.31)。また、同年頃から、日系人で警察へ拘引される者が後をたたず、指導的地位にあるある一世のなどは、いつ拘引されてもよいように、外出時必ず下 着とタオル、歯磨き・歯ブラシを携帯したという。この頃には、コンデ界隈には、日系人はほとんど見かけなくなった。

このように、枢軸国系住民は不自由な生活を強いられることとなったが、ほとんどの日系人は戦勝を信じていたとされる。1945年6月6日には、ついにブラジル政府が日本への宣戦布告、そして同年8月15日の日本の降伏を迎える。これ以後、ブラジル日系社会はそれに続くいわゆる勝ち負けの争いに象徴さ れる戦後の混乱期へと続いていくのである。

では、立ち退き命令によってコンデ界隈から立ち去った日系住民は、戦後どうしたのだろうか。この命令は、サンパウロ市内のヴィラ・マリアーナ、サウーデ、ジャバクワラといった地区への日系住民の郊外化をうながしたとされる。これは事実であり、上記の地区は現在でも日系住民の多い地区として知られ る。ただ、筆者のインタヴュー調査によると、比較的早い時期にコンデ界隈やその周辺のリベルダーデ地区に戻ってきた人びとがいたようである。現在ガルヴォ ン・ブエノ通りで薬局を経営するSAさんの家族は、戦前コンデ・ド・ピニャール通りで旅館を経営していた。戦時中の立ち退き命令により、家族はいったん ヴィラ・マリアーナ地区へ引越したが、戦後すぐにガルヴォン・ブエノ通りに戻ってきて、レストランをはじめたという。また、2000年頃までコンデ・デ・ サルゼーダス通りで雑貨店を経営していたYK氏は戦中パラナ州ウライに引込んでいたが、市営中央市場に穀物を搬入する仕事をしていたため、しばしばサンパ ウロに出てきていた。1945年8月15日にはやはりサンパウロに来ており、コンデで「日本大勝利」と書いた張り紙を見たと証言している。

こういった混乱の中で明るいニュースといえば、1948年1月、コンデの日本人街出身で大正小学校に学んだ二世の田村幸重が、サンパウロ市会議員として繰り上げ当選したことである。田村は後にサンパウロ州議を経て、1954年に日系人初の連邦下院議員となる。

コンデ界隈と同じリベルダーデ地区にあるガルヴォン・ブエノ通りには、1953年、戦後最初の日本人移民51名がオランダ船チサダネ号でサントスに 着いた年、ブラジル最初の日本映画専門館シネ・ニテロイが開館し、後に東洋街が形成される契機の一つとなる(NEGAWA, 1998, p.243; 2001, p.105; 根川, 2006, pp.131-134)。ガルヴォン・ブエノの日本人街については後述するが、この通りは以後、シネ・ニテロイの観客を見込んで集まってきた商店によっ て、新しい日本人街の中心となっていく。

ただ、コンデ界隈の日本人街は、1970年頃はまだガルヴォン・ブエノ通りと対抗するほどの活力を持っていたらしい。当時の邦字紙の記事によると、 新興のガルヴォン・ブエノ通りと比較し、「往年の“主役”コンデ方面は道路拡張にともなう近代化がすすむと同時に、日系商店の移転組が軒をつらね、旺盛な 意欲でカムバックをなし遂げた」とし、またガルヴォン・ブエノ通りとの関係を「共存共栄」と表現している(『日伯毎日新聞』1969年7月9日)。

事実、後にリベルダーデ商工会(ACAL)の第三代会長となるSO氏は、1971年に最初にコンデに宝石店を開いている。また、サンパウロ新聞、日 伯毎日新聞とともに戦後ブラジルの三大邦字紙であったパウリスタ新聞は、1998年3月に日伯毎日新聞と合併しニッケイ新聞となるまで、コンデ・デ・サル ゼーダス通りの坂下に交差するオスカール・シントラ・ゴルジーニョ通りに本社・編集部・印刷工場などを置いていた。これらの事実から、二つの日本人街の 「共存共栄」の時代がしばらく続いたことがわかる。

ただ、1963年にはじまった韓国からブラジルへの移民が都市化し、70年代に多くがこのコンデ・デ・サルゼーダス通りに居住するようになった。 1972年に韓国から移住したSC氏によると、韓国系住民のは主に縫製業にたずさわり、同エリアに残る古いアパートでは住民のほとんどが韓国人で、一晩中 ミシンの音が鳴り響いていたという。また、同氏は当時のコンデ・デ・サルゼーダス通りを「女郎屋街」と日本語で表現し、昼間から娼婦が道にたむろしている ような治安の悪いエリアになっていたと話した。オールドタイマーの日系住民とニューカマーの韓国系住民という二つのエスニック集団の共存ないしすみ分けが 進みつつあったことは興味深いことである。

注釈
*エスタード・ノーヴォ(新国家)体制とは、住田(2000)によると、ヴァルガスの独裁体制であり、「ポルトガルの当時の独裁者サラザールの下で出現した 体制を手本にしたともいわれ、明らかにその頃ヨーロッパを中心に展開していたファシズムの風潮を反映したものであった」また、「ナショナリズムの高揚が、 ヴァルガスの独裁体制の特徴の1つである」とされ、「その内容は、革命による独裁体制の確立によって国家の統一を推し進め、表面上は民衆の政治参加を強調 し、国民共通の意識としての『ブラジリダデ』、すなわちブラジル的な民族中心の政策を行うことであった」とされている(pp.127-128)。また、同 体制の移民政策については、「ナショナリズムの高揚が進められる中で、移民の同化政策が実施され、1938年には移民審議会が設立された。その任務は移民 のブラジル化政策である」(p. 128)と規定されている。

参考文献

住田育法(2000)「新指導者ヴァルガス」金七紀男・住田育法他編『ブラジル研究入門-知られざる大国500年の軌跡-』晃洋書房 pp.121-129

根川幸男(2006)「マルチエスニック都市サンパウロにおける『日本文化』の表象-東洋街における新伝統行事を中心に-」『平成16~17年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書・現代ブラジルにおける都市問題と政治の役割』pp.129-140

半田知雄(1970)『移民の生活の歴史-ブラジル日系人の歩んだ道-』サンパウロ人文科学研究所

ACAL (1996) Liberdade. ACAL

AREÚJO, Oscar E.(1940)“Enquistamentos Étnicos”. In. Revista de Arquivo de Municipal de S.Paulo LXV. São Paulo, Divisão do Arquivo Histórico pp.227-246

NEGAWA, Sachio(1998)「サンパウロ東洋街の形成と変容に関するノート」In. Anais do IX Encontro Nacional de Professores Universitários de Língua, Literatura e Cultura Japonesa e I Encontro Latino Americano. Assis, Unesp pp.242-24

______________ (2001)“Um Comerciante Japonês: História de Vida no Bairro Oriental de São Paulo”. In. Estudos Japoneses 21. São Paulo, FFLCH/USP pp.101-115

新聞記事
「よそおいも新たに-よみがえるコンデ・サンパウロ日本人街新地図」『日伯毎日新聞』5085号(1969年7月9日)

*本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2007 Sachio Negawa

ブラジル サンパウロ リベルダージ ジャパンタウン コンデ・デ・サルゼーダス通り
このシリーズについて

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。

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執筆者について

1963年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)(総合研究大学院大学)。移植民史・海事史・文化研究専攻。ブラジリア大学文学部准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター特定研究員。同志社大学、滋賀県立大学などで兼任講師。主要著書:『「海」復刻版』1〜14巻(柏書房、2018、監修・解説)、『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房,2016)、『越境と連動の日系移民教育史——複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016。井上章一との共編著)、Cinquentenario da Presenca Nipo-Brasileira em Brasilia.(FEANBRA、2008、共著)

(2023年1月 更新)

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