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日系アメリカ人の日本観―アメリカ本土の一世から三世を対象に―

はじめに:日本人からアメリカ人へ

第2次世界大戦中に執筆された「菊と刀」で人類学者のR.ベネディクトは「日本人はアメリカがこれまで国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れな い敵であった。大国を敵とする戦いで、これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮に置く必要に迫られたことは、今までにないことであった」と述 べている。それほど日本人とアメリカ人は当時「異なった」存在と認識されていた。そのような日本人の中で、日本を離れアメリカに定住し、時代を経て日系ア メリカ人となった人々が存在する。世代を経るごとにアメリカ人として文化変容していったものの、どこかに日本的要素をとどめてきた彼・彼女らの日本に対す る思いはどのようなものだったのであろうか。日系アメリカ人の日本観とは個人の内部から自然発生するものではなく、周囲の政治的、経済的、社会的環境に よって形成されるものであるが、世代ごとに比較的明確に、そのスタンスの違いが見えてくる。

一世:故郷日本と居住国アメリカの狭間で

一世にとって日本とは自分の故郷であり、天皇の居る国であり、災害や敗戦で窮乏したりすれば救援物資を送るといった想像の共同体であった。一世はア メリカでの定住戦略のために互助組織である県人会や日本人会を形成した。ジャパンタウンやリトルトーキョーなどの日本人町はアメリカにおいて日本人(一 世・二世)が暮らす民族的飛び地であったが、生活のほとんどを日本人町で完結させていた一世にとっては実質的に国家的飛び地であった。戦前のアメリカにお いて、日系人がコミュニティーの外で暮らすことはほぼ不可能であった。ホスト社会からの外圧、そして明治時代の日本における、天皇を中心とする民族的イデ オロギーは、日本人町に暮らす日系人コミュニティー全体を一つの大きな家族のようなものとして認識させていた。このコミュニティーの凝縮性、相互扶助と相 互監視の状況が、非行や不安定な人間関係といった貧困地域特有の文化の発生を防ぎ、二世以降の社会階層上昇の一因となった。

1931年の満州事変を境に一世の愛国心は刺激され、多数の慰問袋が戦地で戦う日本兵に送られた。1937年の盧溝橋事件の際には、南北アメリカ・ ハワイ・満州・東南アジア・ミクロネシア在住の日本人から合計286,600ドル相当の援助が行われ、北アメリカからはその中で最大の34%、 97,200ドルが供給された。

しかし、アメリカでの排日運動の風潮が高まる中、一世にとって絶対的な存在であった祖国日本への忠誠を示すことは非常に危険なこととなった。一世は 日本語学校の教科書の内容を「よき帝国臣民になるように」から「よきアメリカ人になることが父母の国のため」と変化させ、象徴概念の操作を行った。自分の 出身国と、居住国の間で一世の日本観は複雑に揺れ動いた。

二世:負の刻印となった民族的文化遺産と、日本への否定的な感情

二世は日本についての知識は浅く、日本語や日本文化から距離を置いた。一世は元々日本人としてのアイデンティティーがあったこと、外部社会との接点 が少なかったことから、アメリカでの様々な差別経験によっても日本に対して二世ほど負の感情を持たなかった。しかしアメリカ人としてのアイデンティティー を持つように教育され、それが単に自分の出自のため、自分の外見のために裏切られた二世のほうが、一層日本人であることに恥や罪の意識を感じ、祖先の国で ある日本から目を背けようとした。二世は、疎外されるほどに一層アメリカへの同化、受容を欲したのである。
第二次世界大戦前は、日本への寄付運動に協力した二世のリーダーもいたものの、強制収容所という経験は二世のエスニシティに暗い影を落とし、両親の国日本に対しても否定的な感情を持つに至った。

第二次世界大戦終戦後、経済的に復活した日本は、日本企業という形で二世の前に現れる。日系アメリカ人のコミュニティーや文化的遺産を軽視したジャ パンタウンやリトルトーキョーの再開発やNisei Weekの運営をめぐる日本企業との対立は、二世の日本観にとって再びマイナスとなるように作用した。一方でリトルトーキョー再興のためには日本企業の力 は必要だとする見方も強く、日系コミュニティーは実際日本に対し多様な興味や感情を抱いたものの、かつては貧しい敗戦国であった日本は、アメリカ社会での 差別と戦い生き抜いてきた自分達のコミュニティーを破戒しかねない脅威となって迫ってきたのである。

以上のように二世の日本観を形成する上で主要な要因となった経験―日常生活における差別・強制収容所、はほぼ全ての二世にとって共通の体験である。 二世の日本観はホスト社会アメリカにおける人種差別の風潮、そして対日政策の一環のあおりを受け、彼らが好むと好まざるに関わらず半強権的に、かつある程 度画一的に形成されたものだと言えよう。

三世:外部社会からのエンパワーメントと、選択の「自由」

三世になると状況は変わってくる。大部分の一世・二世と比べ三世は社会階層的に上昇し、ホスト社会アメリカからの差別的視線も弱まり、文化変容が進 み一層アメリカ人化した。三世は、黒人の公民権運動に影響を受けた汎アジア系アメリカ人運動、そして第二次世界大戦における強制収容に対する政府からの謝 罪と補償金獲得(リドレス)の成功という、アメリカの日系人の歴史上非常に重要な、自分達の出自を肯定的に再形成するためのエンパワーメントとなる出来事 を経験する。加えて、経済的に成長した日本は日米関係の行方によっては自らの受難の原因となるかもしれないものの、貧しい敗戦国に比べれば魅力的な存在と なって三世の目に映るものとなった。自身のエスニック・アイデンティティー、そして日本観をより肯定的に再構築できるような外部社会からの働きかけを受け ることは、常にアメリカ社会からの差別的視線の中で生きてきた一世や二世の時代には起こらなかった新しい現象である。

一世や二世の日本観が外部からの圧力によって半ば強権的に、その結果としてやや画一的に形成されたのと異なり、三世の場合、日本観を自発的、選択的 に構築できるという特色がある。三世は一世や二世に比べて自分の出自である日本や日本文化に対し特に嫌悪感や思い入れを抱くこともなく自由に接することが でき、日本観の形成に影響するであろう日本文化関連の行事への参加、日本への旅行・滞在といった経験も自発的に選択可能である。

日本の戦後の、アメリカの貿易相手国としての復活は、三世にとって自分の国と祖先の国をつなげるというアイデンティティーの再構成を可能にしたもの の、日本人と日系人の区別がつかないアメリカ社会におけるジャパン・バッシングのあおりを受けるという三世にとっての受難の原因ともなった。しかし、その インパクトもまた一世や二世が経験した苦難とは比較にならないほど小さなものである。

このように日本観が形成される要因としての外部社会からの政治的・社会的圧力が弱まり、自分自身の選択の余地が大幅に与えられるという傾向は四世以 降、一層強くなっていくと予想され、「祖先の国である日本についてほとんど知らず、日本に対し特別な感情を抱かない」という選択肢もまた一つ増え、その傾 向が強まっていくことが予想される。

終わりに:日本観の変遷からみえてくるもの

日系アメリカ人にとっての日本という存在、そして日本観は、主に日米関係によって変化し続けてきた。ホスト社会への同化により移民のエスニシティが 消滅することはないという指摘が研究者の間ではなされているが、日本観に関しては、日本が今後、日系アメリカ人が敢えて日本に目を向けるほどアメリカに対 して、また世界の中で重要な地位を占めることがなければ、共有する日本観の消失という「自由」への道を辿っていくのかもしれない。

以上のように各世代ごとの日本観を概観してきたが、ここでは一世、二世、三世と括ったものの、各世代の構成員の中にもジェンダー・階級・日系人コ ミュニティとの距離のとり方といった、日本観を構成する際に関係するであろう多様な要素があり、それらが複雑に絡まり彼・彼女らの日本観にも影響を及ぼし たと考えることが出来る。ここで述べた日本観は、あくまで「概観」であることを断っておきたい。

参照文献
Eiichiro Azuma
2005 Between Two Empires: Race, History and Transnatinalism in Japanese America . Oxford University Press.

Miya SHICHINOHE SUGA
2004 Little Tokyo Reconsidered: Transformation of Japanese American Community through the early Redevelopment Projects. The Japanese Journal of American Studies, No.15. pp237-255.

竹沢 泰子
1994『日系アメリカ人のエスニシティ』東京大学出版会

平野邦輔
2007『日系アメリカ人の日本観~本土在住の一世から三世を対象に~』東京大学大学院提出論文。

*本稿は、移民研究会(ディスカバー・ニッケイの協賛団体)が協賛団体の活動のひとつとして、当サイトへ寄稿したものです。

© 2007 Kunisuke Hirano