ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1587/

日系コミュニティの一員に

ただ寿司は握るだけで、頭になくアメリカに渡米したのですけど、それまでは、なんていいましょうか、日系のことというか、あまり考えたことはなかったんです。ただ自分は出稼ぎに来て、ただ自分の将来は貯めたお金で日本に帰って自分のお店をやればという気持ちで来たんですけど、2回目の契約3年来て、終わって、自分のお店を出したときに、商売始めたらコミュニティというものが非常に盛んだったことに気が付き、こういうものがあったというのは、今までは目には留まらなかったんですけど、それがだんだんだんだん脳裏に入りまして、あ、こういったことがあった、日系の収容所もあった、こういったのがあったとは日本では教わったことがないと思っていました。また聞いてもいなかった。そういった大変なことをされたんだなぁ。毎年4月にはマンザナーの方にバスが出たりする。ああ、見に行きたい。常にそういう気持ちもありましたけど、間近なここからスタートして、そういうコミュニティに入っていけたらということから始まったのが私のきっかけですね。そして、こういった日系人のためなんだよ、我々そういう一世が入っていけるコミュニティもあることに気が付きまして、こうして日系の方ががんばっていらっしゃるのに入れたということがまたすごく励みになっています。


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日付: 2016年4月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1949年8月21日、青森県に生まれる。1962年16歳で上京し、夜学へ通いながらすし屋に住み込みをし、板前の修業をする。その後、三長会という調理師組合に入り、数々のすし屋を転々とする。1973年、ロサンゼルスの東京會舘という店と3年契約をして渡米。契約終了後、一時帰国するが、その後も東京會舘から声がかかり、再び3年契約を結んでロサンゼルスへ来る。契約終了後、アメリカへ残ることを決め、1980年にロサンゼルスのリトル東京に「鮨元」を開店。また南加青森県人会の創設にも尽力し、ロサンゼルスにおける日系人コミュニティの発展に貢献しているほか、2007年には初代ねぶた囃子保存会会長を務めるなど、アメリカにおける日本文化継承活動に力を注いでいる。2015年、在ロサンゼルス日本国総領事館より総領事表彰を受賞した。(2018年5月)

サカエ・シゲカワ

地域によって違った差別の状況 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

スミコ・コザワ

家族経営の花屋で働き、グレタ・ガルボと出会う (英語)

花屋 (1916-2016年)

堀切 エドワード・徹

出生地(英語)

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

ホテル経営を始めた父

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

アメリカで働く(英語)

帰米二世(1929年生)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

高塩 明

初めて来たときのアメリカの印象

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

海外に憧れ調理師免許を取得

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

移住当初の生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

イワオ・タカモト

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ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)