ディスカバー・ニッケイ

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8歳で家長になる(英語)

(英語)私の頭を離れない、いまだに覚えていることがいくつかあります。一つ目は父が亡くなった時、私が8歳くらいの時のことです。母に言われました。「ヤチオ、今日からあなたが家長よ」8歳ですよ!家長だと言うのです!一体どういう意味だろうと思いました。「あなたが家族の将来に責任を持つのよ」母が言いました。その意味をすっかり理解したわけではありませんでしたが、私のその後の行動は、事実上その責任を受け入れたようなものでした。

高校卒業後、友人たちは皆大学に進学することになり、私もそうしたいと思っていました。一緒に遊んでいた友人全員が進学したのです。でも私は、大学に行くことを諦めました。週末や休暇に友人たちが帰省すると、私の知らないことを話し、全く別世界に住んでいるようでした。私は、「自分も大学に行かなければ!」と思いました。

4年待ちました。家族の生活のため、家計を助けるために働きました。末の弟、ウィリアムが高校を卒業した時、私は自分の義務は果たした。大学に行こうと思いました。1937年に大学に入りました。


価値 家族 形而上学 心理学 美学 認識論

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

スミコ・コザワ

戦前の幼少期の思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

タミオ・ワカヤマ

「ニッケイ」の定義(英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

キャロウェイ・久松 照美

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横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

母親から受け継いだモットー(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事