ディスカバー・ニッケイ

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パナマで幼稚園に通う

わたしが小学校に入学して、2、3ヶ月学校に通っただけなんです。そしてその年の夏にパナマに行ったんです。7歳のときに、私はパナマに行ったんです。そして、行ったらすぐうちの父が、私を向こうの一番小さい幼稚園の子供の集まるところ、そこへ連れて行ったんです。それは全部白人の子供達が行っている幼稚園なんですよね。

それで、私が日本に帰ってきたのが、小学校3年生のときなんです。だから実質的には、小学校一年、たった2ヶ月か3ヶ月入っただけで、2年生全然ないんです。そして3年生の終わり頃に帰ったから、まぁ1年も2年もほとんど知らないんです、学校は。だから学歴といったって、その2年を引かなきゃいけないでしょう。(笑)だからちょっとおかしいことになっちゃうんですよ。七つでもって、小さい子供たちの、一番小さい子供の集まる、3、4歳の子供の幼稚園に通ったんですから。


日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・玻満子・シュナイダー(旧姓:天野)さんは、1925年、横浜に生まれる。1933年、ラテンアメリカでビジネスをする父芳太郎に連れられパナマで2年間過ごした。パナマへ残った父は、1942年に捕虜交換船によって日本へ戻ってきた。戦後、ラジオ局に勤めていた玻満子さんは、MISの一員として日本へ駐屯していたハリー・シュナイダーさんに出会う。1948年、日本でハリーさんと結婚し、1950年に戦争花嫁としてアメリカに渡る。その後、一女をさずかり、早いうちにアメリカの市民権も取得した。現在は、カリフォルニア州エンシニータスに在住している。(2014年9月)

阪根 博

天野芳太郎の南米進出

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

捕虜交換船で日本へ帰国

天野博物館事務局長(1948年生)

恩智 敏子 エレナ

ペルー人子弟にとって、日本の学校に通うことの挑戦と試練(スペイン語)

在日日系ペルー人

山口 淑子

ソーシャルワークを学ぶきっかけ

新一世ソーシャルワーカー(1931年生)