真珠湾攻撃後のハワイ生活(英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

(英語)私は1934年の10月21日に、ホノルルのカピオラニ病院で生まれました。父は18歳くらいのときにここへやってきて、母は、日本の岩国で高校を卒業し、ここでも教育を受けました。

爆撃を受けたのは日曜日で、私は釣りをしていました。しかし対空砲火が見え、白い光だけが広がったのです。誰もが変だと思いました。しかし、日本が真珠湾を攻撃するなんて、誰も信じていなかったのです。

人々は私たちを「ジャップ」と呼び、よく喧嘩が起きました。彼らは異なる地域ごとに小さな群れをなしていました。真珠湾攻撃をきっかけに、そういったものが作られたのです。

みんな窓を黒く塗っていました。そうすると電気を点けたとしてもわからない。門限があったんです。大人たちや近所の人々が家にやってきて、または他の近所の家を訪れると、コーヒーを作ったり、パイなどを出してくれました。夕方や夕食のあとなど。あとはトランプや花札などのカード遊びをしたりもしました。それを覚えています。

日付: 2012年8月
場所: 米国、ハワイ州
Interviewer: ジョン・エサキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

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