ブラジル国、ニッポン村だより
笠戸丸は「明治の精神」をのせて中村 茂生 「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」(『こころ』より)
「移民の父」とその子供たち中村 茂生 100年の歴史を持つブラジル日本移民には、「移民の父」と呼ばれる存在がいる。ハワイ移民の父とかペルー移民の父というのは聞いたことがないがないから、「父」がいるのはブラジル日本移民だけかもしれない。
出稼ぎにまつわる話中村 茂生 2008年にちょうど100年になるブラジル日本移民史を、まずおおざっぱに頭に入れるために知っておいてよい数字は、約25万、約150万のふたつだろうか。 約25万というのはブラジルに移民した日本人の総数だ。戦前と戦後に分けると約19万人と約6万人ということになる。
2008年正月 三番叟の復活上演中村 茂生 ここまで何回かにわたって、ブラジルのある町の歴史にかんする話題を取り上げてきた。
移住地に来た理由中村 茂生 移住地に暮らした人びとが、そもそも日本を出ることになった理由はさまざまだ。 ブラジルに来ることを決めたいきさつを話してくれるKYさんの脳裏には、ある映像が鮮明に蘇るようだ。 KYさんの故郷は山の中にあった。村人の暮らしは山とともにあるといってよいようなところだった。KYさん一家の生業も山仕事だったから、仕事をする年齢になったら山に入るものだと思いながら成長した。そのことに抵抗があるわけでもなく、疑問を感じたこともなかった。
ブラジルのなかの日本人移住地のなかのブラジル人中村 茂生 いくら日本人移住地だとはいってもブラジル人が一切住んでいなかったわけではない。少ないときでも人口の1割程度はブラジル人が占めていた。とはいっても、それはやはり異常な数字には違いないが。 ブラジルでは、いつも北の方からサンパウロ方面に向けた労働者の移動があるようだ。それは時々、はっきりした理由があって大きな流れになるが、どうやらサンパウロに行けばいいことがあるらしい、という程度の漠然とした期待感が北の人たちにはわけもたれているらしい。
移住地野球の風景中村 茂生 ブラジルといえばサッカー(ブラジルではフチボーラという)だ、という印象を多くの日本人は持っているだろう。ブラジル人は一人の例外もなくサッカーをやっていると信じられていて、路地裏でぼろぼろになったボールを追いかける子供たちのいる風景が自然と頭に浮かんでくる。もちろん実際のブラジルでは、サッカー以外のスポーツも盛んで、バレーボールやハンドボール人口もそうとうなものだ。 日系人はあまりサッカーをやらないグループのようだ。「サッカーとサンバはジャポネスにはやらせるな」などというひどい言い方まであるそうだが、そういえばサッカーボールをける日系人の姿はあまり見かけないように思う。ではいったい日系人に人気の高いスポーツは何なのか?最近でこそだいぶん多様化しているようだが、今でもやっぱり野球というのは日系人と結びつきの強いスポーツのようだ。
日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち中村 茂生 学校生活にまつわる話にはまだいろいろ面白いものがある。前回で終わりにするには惜しいのでもう少し続けよう。 日本の尋常小学校教育だけが行われていた時代が幕を閉じると、州政府からようやく正式に教師たちが派遣され、ブラジルの教育がはじまった。その後ブラジルのナショナリズム運動が盛んになって、尋常小学校教育どころか日本語を使った教育は一切できなくなるわけだが、それまでの一時期は尋常小学校とブラジルの小学校が共存することになった。移住地の子供たちは、ふたつの学校に通わなければならなくなった。祖国日本の子供たちに比べると、その頃の移住地の子供たちはずいぶんと忙しかったことだろう。もっとも学校で過ごす時間がそんな風に長かったからこそ、同窓生たちはいまだに仲がよいのかもしれない。
日本人移住地の話(2)― 学校生活中村 茂生 前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。
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