ブラジルの日本人街

ブラジルの日本人街 第15回 (最終回) — 日本人街の現在と明日

投稿者:editor 日付:木, 07/24/2008 - 10:45

s_negawa90.jpg

ブラジルの日本人街 第15回 (最終回)
日本人街の現在と明日

根川 幸男

サンパウロに行けば、「日本」に会える。サンパウロから約1000キロも離れた内陸ブラジリアの若者たちには、そんな共通認識がある。その「サンパウロ」は、ばくぜんと東洋街を指しているようだ。


ブラジルの日本人街 -- 第14回 華人系・韓国系の東洋街進出

投稿者:editor 日付:木, 06/19/2008 - 12:56

s_negawa90.jpg

第14回 華人系・韓国系の東洋街進出

根川 幸男

最近、サンパウロ東洋街でよく耳にするのは、「ここが日本人街だったのは昔の話。今は中国人や韓国人ばっかりになってしまった」という日系人の嘆きである。繁体字や簡体字の看板だけ見て歩いても、華人系商店の進出のいちじるしさがわかる(写真14-1)。実際、ブラジル日本文化協会の古びたビルの、交差点をはさんで斜め向いに2005年に建設されたブラジル客家活動中心(地上4階・地下3階)のモダンな姿は、東洋街における華人系プレゼンスの増大を視覚的にも象徴している観がある(写真14-2)。


ブラジルの日本人街 -- 第13回 カンタレーラ街-消えた日本人街-

投稿者:editor 日付:木, 04/24/2008 - 15:25

s_negawa90.jpg

第13回 カンタレーラ街-消えた日本人街-

根川 幸男

以前にも述べたように、サンパウロには、「日本人街」と呼ばれたいくつかのエリアがあった(本連載第5回ピニェイロス地区参照)。戦前から戦中にかけては、「コンデ界隈」と呼ばれたエリアがもっとも規模が大きく、ついでピニェイロス地区、その次が市立中央市場(Mercado Municipal=メルカード・ムニシパル)の周辺で、通りの名を取って「カンタレーラ街」と呼ばれていた(地図5-1参照)。


ブラジルの日本人街 -- 第12回-東洋街形成と一世リーダーたち ② 水本毅

投稿者:editor 日付:木, 03/27/2008 - 12:41

s_negawa90.jpg

第12回-東洋街形成と一世リーダーたち ② 水本毅

根川 幸男

「東洋街、東洋祭り、東洋市、鳥居の建立も、すずらん灯も、すべてミズモトの頭から出たんだよ…」

1973年から75年までサンパウロ市長を勤め、水本毅とともに東洋街を旗揚げしたミゲル・コラスオーノ元サンパウロ市長はそう語る。「新しいアイデアがあると、黙っていられないらしくて夜遅くでも電話をかけてきた。おいミゲル、聴いてくれって…。そんな仲だったよ。ポルトガル語もずいぶん上手に話したよ」


ブラジルの日本人街 -- 第11回 東洋街形成と一世リーダーたち ① 田中義数

投稿者:editor 日付:木, 02/21/2008 - 13:00

sachio negawa_sm.jpg

第11回 東洋街形成と一世リーダーたち ① 田中義数

根川 幸男

世界のどの移民史の局面でも、エスニックタウン形成の初期には、強力な指導力をもった大物リーダーが存在した。サンパウロ東洋街創設にかかわった日系大物リーダーといえば、まず思い浮かぶのが田中義数(1909~1979)と水本毅(1920~1989)であろう。

すでに書いたように(第6回「東洋街の形成と発展①」)、1953年、シネ・ニテロイがリベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通りを少し下ったところ(現在の大阪橋の位置)に開業したことによって(写真11-1)、このエリアに日系商店が集まるようになり、のちに東洋街が形成される契機となった。シネ・ニテロイは、ブラジル最初の本格的日本映画専門館であり、二階以上にレストラン、ホール、ホテルを備えた、当時の日系コミュニティ最大の多目的娯楽施設であった。ブラジル日本文化協会センターが完成するまでは、ここで各種パーティーや美術展が開かれ、コミュニティ社交の中心でもあった。このシネ・ニテロイを創立したのが田中義数である(写真11-2)。


ブラジルの日本人街 -- 第10回 (番外編2) ロンドリーナ-日系文化ムーヴメントとマツリダンス-

投稿者:editor 日付:木, 01/10/2008 - 15:52

sachio negawa_sm.jpg

第10回 (番外編2) ロンドリーナ-日系文化ムーヴメントとマツリダンス-

根川 幸男

最近ブラジルでは、「日系文化」や「新日系文化」という言葉が邦字紙を中心に使われだした。この言葉は、「『日本文化』をベースにブラジル風にアレンジした文化」という意味で使われているが、「日本の日本文化」から、自らの「日本文化」を「日系文化」として自覚的に差異化し、多文化的な「ブラジル文化」を構成する一要素として位置付ける姿勢を示している。

現在、その日系文化プレゼンスでもっとも熱いと思われるエリアが、北パラナ(パラナ州北部)である。戦前から多くの日系人が入植し土地を開拓してきた地域であり、戦後は政界、財界、法曹界、ビジネスなどさまざまな方面に進出し、めざましい活躍をするようになっている。この北パラナの中心都市ロンドリーナ(Londrina=人口約50万)は、その名が示すとおり、戦前イギリスの土地会社によって開発され、ロンドンにちなんでその名がつけられた(地図1参照)。日系移民の入植も戦前の1930年からはじまっており、現在はすでに三世、四世の世代が台頭している。また、同市は兵庫県西宮市と姉妹都市であり、強力なインテグレーションを持った日系コミュニティが存在する。


ブラジルの日本人街 -- 第9回 東洋街の形成と発展④-日本企業ブラジル進出時代-

投稿者:editor 日付:金, 11/02/2007 - 09:16

sachio negawa_sm.jpg

第9回 東洋街の形成と発展④-日本企業ブラジル進出時代-

根川 幸男

70年代中頃のトーマス・デ・ゴンザーガ通り―派手な電飾、クラブの入口から千鳥足でよろけ出すスーツ姿の日本人男性たち、それを見送る化粧の濃いホステスたちの嬌声―東洋街には、盛り場としての「夜の顔」があった。

前回までに述べたように、戦後のリベルダーデ地区への日系人口の再集中と東洋街の形成については、1)1953年7月のシネ・ニテロイ開業、2)1964年4月のブラジル日本文化協会センター設立、3)1975年9月の地下鉄リベルダーデ駅開通という三つの契機があった。さらにこれらに加えて、同エリア発展の契機として、1970~80年代の日本企業のブラジル、特にサンパウロへの進出をあげることができるだろう。当時、東洋街は日本企業駐在員の歓楽街として、また日本食品・食材調達のマーケットとして機能しており、駐在員とその家族は消費者として大きなウエイトを占めていたと考えられるからである。


ブラジルの日本人街 -- 第8回 東洋街の形成と発展③-新しい「伝統」の創成-

投稿者:editor 日付:木, 10/11/2007 - 14:45

sachio negawa_sm.jpg

第8回 東洋街の形成と発展③-新しい「伝統」の創成-

根川 幸男

週末の東洋街はこのエリアを訪れる人たちと車でごったがえす(写真8-1)。東洋市を訪れる観光客、東洋食品や製品を扱うスーパーの買い物客、日・中・韓の各料理店で食事を楽しむ人びと、なんとなく駅前にたむろするJ-POPファンの若者たちなど、さまざまである。また、このエリアは、4月の花祭り、7月の七夕祭り、12月の東洋祭り、大晦日の餅つき大会というエスニック・イヴェントの中心でもある。これらのイヴェントのある日、リベルダーデ広場はお祭り広場と化す。

前回述べたように、50年代後半から、日系コミュニティ側のブラジル社会(ソト)に向かった「日本文化」の積極的なプレゼンスが行われるようになる。こうしたウチからソトへという日系コミュニティの自文化表象は、60年代以降のコミュニティ自体の拡大・多様化とともに、その方向や方法も多様化していく。その中でも、注目されるのがサンパウロ東洋街の形成とそれにともなう新しい「伝統」の創成である。


ブラジルの日本人街 -- 第7回 東洋街の形成と発展②-地下鉄リベルダーデ駅の開設-

投稿者:editor 日付:木, 09/06/2007 - 12:18

sachio negawa.jpg

第7回 東洋街の形成と発展②-地下鉄リベルダーデ駅の開設-

根川 幸男

1950年代の前半から、シネ・ニテロイをはじめとして四つの日本映画専門館がリベルダーデ地区に営業し、「昼なお暗き」と形容されたガルヴォン・ブエノ通りにネオンがまたたくようになった。また、1964年には、サン・ジョアキン通りの坂下、ガルヴォン・ブエノ通りとの交差点に、サンパウロ日本文化協会(ブラジル日本文化協会の前身)センタービル(以下「文協ビル」)が竣工する。この二つの契機によって、リベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通りを経てサン・ジョアキン通りまでの空間が、一つのまとまったエリアとして日系住民の間で意識されることとなった。後に東洋街として発展していくエリアの誕生である。


ブラジルの日本人街 -- 第6回 東洋街の形成と発展①-シネ・ニテロイと文協の誕生-

投稿者:editor 日付:木, 08/09/2007 - 09:00

sachio negawa.jpg

東洋街の形成と発展①-シネ・ニテロイと文協の誕生-

根川 幸男

サンパウロ地下鉄南北線のリベルダーデ駅を出ると、派手な看板をかかげた飲食店や日本・中国・韓国の食品・食材を売るスーパーマーケットがひしめく一角に出る。東洋街の中心リベルダーデ広場だ(写真6-1)。ここから南に向かってガルヴォン・ブエノ通りが走っており、夜になると商店のネオンとともに赤いポールのすずらん灯が街路を照らす。かつて世界最大の日本人街と呼ばれた東洋街は、サンパウロ市のほぼ中心に位置するリベルダーデ地区の商業・観光エリアであり、リベルダーデ広場から、ガルヴォン・ブエノ通り、グロリア通りを経て、サン・ジョアキン通りまで広がっている(地図12参照)1


Syndicate content