ブラジルの日本人街 第15回 (最終回) — 日本人街の現在と明日
ブラジルの日本人街 第15回 (最終回)
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ただ、実際に東洋街を歩いてみると、日本色(あるいは東洋色)ばかりが目立つわけではない。買い物客はもちろんだが、朝から晩まで多くの非日系の学生風の若者たちを眼にする。以前明らかにしたように、かつてこのエリアは、大正小学校や裁縫女学校、それらの寄宿舎が集中し、日系の学生街という性格を有していた。しかし近年、多くの私立大学・予備校が進出し、エリアの新しい顔として、「大学・予備校の街」というイメージが浮かび上がっている。現在、リベルダーデ地区には、大学6校、予備校3校があり、このエリアに新しい活気を生み出している。サンパウロ市の大動脈の一つリベルダーデ大通りに面して、地下鉄駅であるリベルダーデ駅とサンジョアキン駅の間には、夜間も若者たちの行き来が途切れず、BARは人であふれ、道路はしばしば渋滞を起こしている。またこの他に、台頭いちじるしい華人系の幼稚園・保育所も増えている。
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こうした新しい傾向が見られる一方、日系人プレゼンスの後退やイベント・スペース上の限界、交通渋滞、治安の問題が持ち上がっており、日系コミュニティ側もそれらの解決策を模索している。ACAL(リベルダーデ文化福祉協会)の池崎博文会長は、昨年2007年2月、6期目の会長就任記者会見で、「ボウレヴァール・リベルダーデ・プロジェクト」構想を発表した。シネ・ニテロイ跡地に地上15階、総面積5万平方メートルのポルタウ・ダ・リベルダーデというビルを建設、オフィスやショッピングモール、映画館を備えた大型の多目的施設を建設するというものだ(ニッケイ新聞WEB版, 2007/02/17)。これが実現するとシネ・ニテロイの再来となり、垂直に伸びた新しい日本人街が誕生することになる。ただ、こうした東洋街の再活性化計画は真新しいものではなく、シネ・ニテロイ跡地に大型ビルを建設するアイディアは、故水本毅会長時代からすでにあった。
東洋街を行き来する人の波の中にいると、その繁栄は疑いようもないが、街並はどうしてもごてごてと垢抜けないイメージがつきまとう。店舗ファサードの日本的(=東洋的?)デコレーションは街の顔の一つだが、デザインに統一性がなく、観光・商業地区として洗練されているとは言いがたい。事実、2007年には、市美化条例施行で、このエリアの多くの店舗が看板やデコレーションを撤去しなければならなくなり、さんざん物議をかもした。その一方で、同年10月には「リベルダーデ再活性化プロジェクト」が浮上した。ブラジル日本移民百周年を記念して、リベルダーデ広場にハイテク技術を駆使し、江戸時代の日本を再現するというもので、雑誌に掲載されたイラストを見てみると、大仏や日本風建築、東洋風ファサードなど、エキゾチックなシンボルを組み合わせた構成になっている(Made in Japan No.126, 2007/3月, pp.44-51)。サンパウロ市によれば、プロジェクトの概算は約4500万レアルと計上されているが、市からの予算はなく、一般企業からの出資を募る計画であるという(ニッケイ新聞WEB版, 2007/10/31)。
このプロジェクトを反映して、2008年6月には、リベルダーデ広場に面したブラデスコ銀行支店が、いち早く改装工事を行ない、日本の城郭風ファサードが出現した。しかし予算不足のためか、すずらん灯の電灯がつけ替えられ、夜の街が明るくなった他は、今のところ、街路や店舗の改装の様子は見られない。
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今から15年ほど前の90年代半ばには、世代交代や出稼ぎによって日系社会が空洞化し、解体に向かうことが危惧されたものだ2。しかしながら、新世代の台頭によって、日本語や日系コミュニティを媒介としない「日本文化」の表象が見られるようになり、今や東洋街だけでなく、ブラジルの日本人街は日系文化(=ブラジル日系社会で再解釈・再創された日本文化)を具現化・可視化する場となっている。例えば、週末の東洋街は、コスプレやヴィジュアル系を意識した若者たちが集まり、情報を交換するJ-POP発信基地としての顔も兼ね備えている。
このように、東洋街は、日系コミュニティと深く関わりながら、華人や韓国人、非アジア系ブラジル人など、多くの集団にまたがったマルチ・エスニックな、そしてさまざまな文化が具現化した顔をあわせ持つ多元的な空間として発展していく可能性を秘めている。
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今年2008年は、ブラジル日本移民百周年である。1908年の笠戸丸移民のうち大多数は内陸の農場に向ったが、十数人はコンデ界隈にとどまり(半田, 1970, pp.168-169)、サンパウロ日系住民の先駆けとなった。この最初の日本人集住は、戦前の日本人街「コンデ界隈」の形成へと続いていく。この意味で、ブラジル日本移民百周年は、ブラジルの日本人街の百周年でもあると言える。
百年前、コンデの坂下からゆっくりと坂をのぼりはじめた日本人は、戦後リベルダーデ広場という坂の上に達した。それだけでなく、坂の上を越えて拡大し、今や日系コミュニティの裾野はブラジルのあらゆる分野に広がっている。次の一世紀、ブラジルの日本人街は、つぎつぎと新しい要素が付加されていくダイナミズムの中で、さらに変容と再創をくりかえしていくにちがいない。コンデの坂下からはじまった筆者の旅も、まだまだ終わりそうにない。
注釈:
1.実際にガルヴォン・ブエノ通り界隈は、「ガルボン銀座」とも呼ばれていた。
2.例えば、鈴木(1998)pp.61-62
参考文献
半田知雄(1970)『移民の生活の歴史-ブラジル日系人の歩んだ道-』サンパウロ人文科学研究所
鈴木正威(1998)「コロニアはこれでよいのか-戦後移民の反省と提言-」『人文研』No.1サンパウロ人文科学研究所pp.59-65
「ボウレバード・リベルダーデ・プロジェクト」『ニッケイ新聞』WEB版, 2007/02/17
「東洋街の再活性化計画が浮上」『ニッケイ新聞』WEB版, 2007/10/31
“A Nova Liberdade”. In. Made in Japan No.126. São Paulo, JBC, 2007/3月, pp.44-51
根川幸男(ねがわ・さちお): ブラジリア大学外国語・翻訳学部助教授。1996年からブラジル在住。専攻分野は移民史・比較文化研究。最近は、ブラジルの日系・アジア系教育機関の形成史に関心をもっています。
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© 根川 幸男





