日系ペルー人の終わらない戦後 その1
日系ペルー人の終わらない戦後 その1福田恵子 第二次大戦中、日系アメリカ人が敵性外国人として見なされ、アメリカ各地の強制収容所に抑留されていた事実を知る人は多い。しかし、中南米の日系人もまた、米国内の収容所に強制連行されていた。私がそのことを知ったのは、NHKの特集番組がきっかけだった。 番組によると、ルーズベルト大統領は国内の日系人だけでなく、中南米在住の日系人も敵性外国人として逮捕することを望んだのだと言う。合衆国大統領の申し出に、メキシコ、ボリビア、コロンビア、コスタリカなど13にのぼる中南米諸国が応じた。米国に連行された日系人の総数は2264人。うち7割を占めるのがペルーの日系人だった。 ペルーへの日本人の移住は1899年から始まった。当初はサトウキビ農園の労働に従事していたが、やがてレストランや商店の経営で成功を収めるようになる。リマ近郊に在住していた日系人は日本人学校を創設、スペイン語を自由に操り、地元社会の実力者として頭角をあらわしていく。1920年代には3万人の日系人がペルーに暮らすようになっていた。 しかし、日系人の台頭を快く思わない人も少なくなかった。それらの嫉みを、戦時下、プラド大統領はアメリカとの秘密協定に利用した。実力者を中心に日本人狩りを行い、アメリカに送り出した。 輸送船に乗せられた日系人たちは、米国テキサスをはじめとする収容所に連行された。アメリカ入国の際にはパスポートもビザも持たされず、「不正入国による移民法侵犯」容疑をかけられる。やがて、主人だけでなく、ペルーに残された家族もアメリカに呼び寄せられる。しかし、それは家族で一緒に暮らせるようにという配慮からではなく、アジア各地で日本軍に捕われていた米国軍捕虜との交換要員が必要だったからだ。米国軍捕虜の数は7千人。収容所からニューヨーク港に集合させられた中南米の日系人は、船でインドのゴアをめざした。そこで、米国軍捕虜と交換が行われた。こうして日本に強制的に戻された日系人たちの戦後は苦労の連続だった。彼らは財産も名声もすべて中南米に置き去りにしてきたのだ。 一方で、米国の収容所を開放された後に、日本行きの船への乗船を拒み、米国内に残った中南米出身の日系人たちも多かった。1980年代に強制収容された米国出身の日系人には米国政府が公式に謝罪し、1人2万ドルの補償金が支払われた。日系ペルー人たちも同様の訴えを起こしたが、1人5千ドルという補償金しか受け取ることができなかった。強制的に国外にまで連行されてきて、さらにパスポートをはく奪され、財産を残した国に戻る道さえも閉ざされた彼ら。あまりにも公平さを欠く処置だと言わざるを得ない。 ペルー出身の日系人たちは、強制連行されてきた過去の悲劇について、声高に語ることをしない。しかし、私はどうしても、彼らの生の声を聞きたいと思った。全米日系人博物館からの情報で、わずか6歳の時にアメリカに来たペルー出身の日系人男性と連絡を取ることができた。元検眼医で今は悠々自適の引退生活を送る、カリフォルニア州サウストーランス在住のマイク中松氏がその人である。さらに、中松氏の紹介で、ロサンゼルス市リンカーンハイツの引退者ホームに暮らす親川さんにも取材ができた。次回2回に分けて、お2人の壮絶な体験をご紹介したい。
>>その2 福田 恵子(ふくだ・けいこ): 大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。 © 福田 恵子 |

