ブラジル国、ニッポン村だより -- 日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち
日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち中村 茂生 学校生活にまつわる話にはまだいろいろ面白いものがある。前回で終わりにするには惜しいのでもう少し続けよう。 日本の尋常小学校教育だけが行われていた時代が幕を閉じると、州政府からようやく正式に教師たちが派遣され、ブラジルの教育がはじまった。その後ブラジルのナショナリズム運動が盛んになって、尋常小学校教育どころか日本語を使った教育は一切できなくなるわけだが、それまでの一時期は尋常小学校とブラジルの小学校が共存することになった。移住地の子供たちは、ふたつの学校に通わなければならなくなった。祖国日本の子供たちに比べると、その頃の移住地の子供たちはずいぶんと忙しかったことだろう。もっとも学校で過ごす時間がそんな風に長かったからこそ、同窓生たちはいまだに仲がよいのかもしれない。 一日は午前と午後にわけられ、校舎はふたつにわけられて、ふたつの学校は存在した。従来の尋常小学校が「日本語学校(あるいはニッポン学校)」、ブラジルの小学校(グルッポと言う)が「ブラジル学校」と呼ばれた。子供たちは学年によって、昼ごはんをはさんで日本語学校生になったりブラジル学校生になったりした。 厳しい先生のいた日本語学校に比べ、ブラジル学校での生徒たちの授業態度は、あまり誉められたものではなかったという話がある。いずれ日本に帰るつもりでいる人の中には、子どもに向かってきっぱりと「日本語だけ勉強していればよろしい」と宣言する親さえあったという。子どもたちがついうっかりブラジルにいることを忘れて、何をしゃべっているかわからない教師をないがしろにしたとしても仕方ない雰囲気があったのではないだろうか。ひどかったのは特に一部の男子生徒だったという証言が元女子生徒からあがっているが、ブラジル人教師は時に相当なからかわれ方をしたようだ。頻繁にヒステリーを起こして倒れる教師までいたというから気の毒だ。 親の海外赴任について行って現地の学校に通うはめになった子どもの苦労はいまどき珍しくない話だが、自分の国の学校で教師になって赴任した先の生徒が、ほぼ全員外国人だったというのは聞いたためしがない。ブラジル人教師たちのとまどいはいかばかりだったことか。教師としての理想に燃えた青年の姿など想像すると、同情を禁じえない。 何しろ言葉が通じないわけだから問題は多かったろうし、腕白な生徒もいたのだろうが、それでも実際には大半の生徒はおとなしく授業を受けていたようだ。 「そりゃその頃は、先生といえばブラジル人であろうと日本人であろうと敬うべきものでしたから」 というKMさんの常識はほぼ共有されていたらしい。現代日本の教師が聞くとついため息のでるような言葉ではないか。 中には特に熱心な生徒もいた。 SSさんには、ブラジル語でブラジル人とコミュニケーションする、ということが愉快に思えてしょうがなかった。授業を一生懸命聞いて、憶えた言葉をさっそく使ってみる。そういう態度の生徒は教師からもかわいがられて当然だ。そうして教師たちと個人的に接する機会が増えると、またそれだけブラジル語が身近なものになり、めきめき上達する。 ある時SSさんは、学校の向かいの病院で用事をしていた。ふと気づくと、向こうのほうから校長先生がゆっくりと歩いてくる。何だろうと思っていると、SSさんのところまでやってきた校長先生から、ブラジル語の先生が出勤してこないので代りに授業をやって欲しいと頼まれた。 「私もまだ子どもだったのに、仕方ないから黒板にアーベーセーって書いて教えたわよ」 後にサンパウロ駐在の日本人商社マン相手にブラジル語教授をしたという、流暢なブラジル語を操るSSさんの、それが記念すべき最初の授業になった。 優等生だったKMさんは、ブラジル学校の成績もよかったが、クラスのみんなといっしょに先生を泣かせた思い出がある。といってもいじめたわけではない。ブラジル学校最初の卒業生だったKMさんたちが、卒業の記念にと先生へ贈物をした時のことだ。自分の言葉を何一つ解さない異国の子どもたちに取り囲まれ、途方に暮れることも少なくなかったに違いないブラジル人教師にとって、いろんな苦労が報われたように感じた瞬間だったのだろう。 その時のことで、KMさんにはもうひとつ忘れられない思い出がある。感動した先生は、ひとりひとりにアブラッソをしてくれた。ブラジルにもう何年も暮らしていながら、KMさんは、このブラジル式抱擁挨拶の経験がなかった。 「あれがね、はじめてだったんですよ。アブラッソね」 いまだに照れくさそうだ。 ところで先生を泣かせたのは、いったいどんな贈物だったのだろう。 「それがねえ、思い出せないよ」 KMさんの思い出には、今でも涙を流す先生の姿が、最初のアブラッソの温もりと一緒にしまいこまれているのに違いない。たぶんその印象が強すぎて、贈物が何だったのか忘れてしまったのだ。 中村茂生(なかむら・しげお): 立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめる。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。 このコラムシリーズはRSS購読可能です。中村氏の最新のエッセイを入手するために、右上にある『ブラジル国、ニッポン村だより』クリックし、ページ下のオレンジのボタンをクリックしてください。RSSに関する情報はこちらを参考にしてください。 © 中村 茂生
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