ブラジル国、ニッポン村だより -- 日本人移住地の話(2)― 学校生活
日本人移住地の話(2)― 学校生活中村 茂生 前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。 実際、授業の大半は、日本人教師が、日本語を使って、日本から取り寄せた教科書で教えていた。ポルトガル語の教師としてブラジル人を何度か呼んだけれどもいつかなかったのだという。 運動会や学芸会ももちろんあった。舞台のある講堂、トラックのあるグラウンドはきちんと整っていた。 移住地をあげて行われる運動会は、一大イベントだった。その光景は、地域全体で祭りのようにして楽しまれた、戦前日本の小学校で見られた運動会のそれと、きっと同じようなものだったに違いない。 移住地の学校のこんな様子を知ると、まるで日本人移民はブラジルに日本の飛び地でも作ろうとしていたかのように思える。しかし実際にそんな非現実的な企てがあったわけではなく、教育熱心な日本人移民が公立学校の開設を待ち切れずに自力で学校を建設し、つくってみたもののブラジル政府や州政府がすんなり教師を派遣してくれるわけでもないからとりあえず日本の教育を始めてみた、というようなことでもあったらしい。 日本人移住地の学校ができたころ、ブラジルではナショナリズム運動が盛んになりつつあった。国土がべらぼうに広く、州同士で戦争になるほど強烈な対抗意識を燃やしているなかでひとつの「ブラジル人」をつくろうというのだから、相当な力業が必要だった。そんな状況で、移民が、母国語で、母国式の教育をすることが見逃されるはずはなかった。 KMさんは、「尋常小学校」時代の移住地の小学校に6年間通った。学校自体の存続期間の短さもあって、全課程で日本式教育を受けた生徒はそれほど多くはない。 小学校6年間、見事な成績をとり続けたKMさんに、学校にまつわる思い出話をねだると、いつも少し恥ずかしそうに、つまらない話だからとことわりながら、いったんしゃべりはじめると次々と愉快なエピソードを披露してくれる。日本人移民にとって難しい時代にあっても、小学生たちはそれなりに楽しい、かけがえのない学校生活を送ったようだ。 80歳を越えた元移住地小学校同窓生たちは、今でも毎月サンパウロで集まりをもっている。 中村茂生(なかむら・しげお): 立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめる。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。 このコラムシリーズはRSS購読可能です。中村氏の最新のエッセイを入手するために、右上にある『ブラジル国、ニッポン村だより』クリックし、ページ下のオレンジのボタンをクリックしてください。RSSに関する情報はこちらを参考にしてください。 © 中村 茂生
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