日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その7/8

その6>>

『ポストン文藝』を多彩な総合雑誌にしているのは、芸能の記事や写真が華いだ雰囲気を添えているからであろう。この時期にもっとも人気のあったスターは、日本舞踊家の藤間勘須磨(濱口須磨子)で、彼女に関する記事が『ポストン文藝』を賑わしている。彼女は1934年に日本へ行き、5代目藤間勘十郎のもとで名取りになった若い二世である。

日系社会には各流派の名取りがいて、それぞれ弟子を養成していた。生活が安定すると子女に日本舞踊を習わせて、日本的な立ち居振舞を身につけさせ、日本の古典芸能を理解できるようにするのが、親の願望であり、ステイタス・シンボルにもなっていた。とくに収容所内では様々な稽古事が盛んで、古典芸能などに縁がなかった人でも日本舞踊を習うことができた。

勘須磨はアーカンソー州ローワー収容所に送られたが、特別の許可を得て慰問のため各収容所を巡り ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その6/8

その5>>

かつて日系人の文学は短詩形文学中心であったことから、この『ポストン文藝』の中の短詩形文学作品の数はたいへん多い。

詩の分野では第一に外川明の名をあげることができる。彼は1903年、山梨県南都留郡に生まれた。父は妻と3歳の明をおいてアメリカへ渡り、16年間帰国しなかった。村の尋常小学校を卒業後、彼は養蚕、農業、道路修理の労働者、富士登山の強力(ごうりき)、行商人などあらゆる仕事をして母を助け、父の帰りを待った。1922年に父が帰国したとき、彼はすでに19歳の若者になっていた。翌年父とともに渡米、夜学に通いながら働いて1929年に帰米二世の女性と結婚した。彼は戦前から詩を書き、日系社会で詩人として知られるようになった。彼は1932年に東京で私家版の詩集を出版 ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その5/8

その4>>

木内春波(貞勝)の「おもかげ」(45年7、8月号)は、初恋に破れて転落の人生を送った男が老人となって収容所の病院で死の床に横たわるとき、優しい看護婦に出あう。それはかつての恋人の娘だと分かるが、真実を明かさずに死んで行くという物語である。文章もしっかりしていて、物語の運びも手なれたものである。木内は当時40代、若い頃文学青年だったが仕事に追われてものを書く暇がなく、収容所でやっとその時間を与えられたという。「技師長」(44年10月号)は、変り者といわれた隣人の一世が行方不明になり、部落の人びとが捜索隊を組織して砂漠の中を探し回るが、ついに見つからなかった事件について書いたものである。たぶんこれは事実にもとづいたものであろう。老一世の中には絶望のあまり自殺したり ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その4/8

その3>>

発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。

ポストンはトゥーリレイクとは異なり、志願兵となる者、再定住のため収容所を去る者など人びとがつねに移動した。ポストン文芸協会の人びともひとりまたひとりと去って行くが、『ポストン文藝』はこれら外部へ出た人からの寄稿によって支えられ、継続することができた ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その3/8

その2>>

2.『ポストン文藝』の創刊と目的

ポストンで最初に文学活動を開始したのは「ポストン歌会」で、1942年9月に第1回歌会が開かれたという記録がある。開所当時は印刷物の配布が禁止されていたため、歌会を開いても、そこで詠まれた短歌を印刷して配ることさえ許されなかった。

そこで川柳愛好者の矢形渓山と石川凡才(庄蔵)は川柳を書いた大きい紙を週に1、2回メスホール(食堂)入り口に貼り出した。36ヵ所の食堂に貼って歩くのに2日かかったというから、川柳にかける2人の熱意は大変なものだったといえる。2人は人びとが貼り紙の前に足をとめて作品を読んでほほえんだり、批評したりする姿と遠くから眺めて満足したという。これは文学好きの2人が炎熱の収容所に見出したささやかな楽しみであった。

『ポストン文藝』は第1館府で、前に述べた ...

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