限りなく遠かった出会い

1934年19歳で単身ブラジルに移住し、81歳にブラジルで他界した父が書き残した日記や、祖父一家の体験話などをもとに、彼らのたどった旅路を、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に連載した(2003年4月~2005年8月)。そしてそのコラムをまとめ、「限りなく遠かった出会い」として、2005年に出版した。このシリーズでは、そのいくつかのエピソードを紹介する。

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義父

            薬漬 医学の進歩に 泣ける老い

            妻逝きて 知る木枯らしの 冷たさを

この俳句は義父、上村正治が晩年の孤独の中で詠んだ句である。義父は長年趣味として和歌を綴り、それをサンパウロ、ニッケイ両新聞の歌壇、柳壇などに投稿していた。それを読むたびに私は、義父の心とその雰囲気が写生されたかの様で心を打たれたものである。

義父は、和歌山県出身で上村家の男3人女4人の次男坊である。10歳の時1928年、家族とともにサントス丸で移民として来伯した。兄弟中で一番の働き者であったようである。サンパウロ州奥地のべラクル―スの耕地に入り、苦労の果て独立してドラセーナ市で店を経営するようになった。

妻静子との間に2男4女をもうけ、6人の子どもたちへ最高教育を与えた(医科大3人 ...

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結婚式

先日、友人の長男の結婚式に招かれた。カソリック教会での華麗な披露宴で立派な、気持ちのいい雰囲気であった。

この友人とは、仕事を通して知り合い、今でも一緒に仕事をしている。実はこの友人、私の家族と古い関わりがあっったのだ。父、宮村季光(1995年他界)の残した日記には、まだ独身で、サントス市で歯の技工士をしていたころ、彼の祖父、吉廣爺(よしひろ)にお世話になったことがいくつも記述されていた。。

そのひとつに、次のくだりがあった。

 一九四二年二月十二日、今日は僕の二十八歳の誕生日である、何かお祝いをしなくてはならないと思ったが、一人ではどうにもならないのと ...

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お風呂と味噌汁

私は子供の頃、よく白人に「Ei! Japones」と呼ばれた。こう呼ばれると、何となく白人から「見下され」、「別物扱い」されている様に感じた。

実際、この呼び方は、日系人を蔑む形でよく使われていた。これは日本人同士の集団性といったような白人社会には理解出来ない日常の習慣とか、ポルトガル語の発音のなまりが原因だったのかもしれない。また、日系社会は二流から三流社会層の家庭が中心で、学問はできても白人の中・上流社会とは縁が薄く、そこにはわれわれ日系人が入れない壁があった。当時の私たちにとって、信頼できる「ガランチード」という評判が救いであった。

あの頃の日系人とは何であったのだろうか ...

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法要とお墓参り

ブラジルの主な日本人家庭では、身内の誰かが亡くなると、先祖代々信仰してきた宗教に応じて葬儀を行う。仏教徒の場合、初七日、四十九日、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌と法事を行う事が普通である。西本願寺、東本願寺、浄土真宗、真言宗等、宗派によってお寺を良く確認して行かぬと戸惑う事がしばしばある。

週末になると、ほとんどのお寺の周辺は車で渋滞し、駐車するのも大変である。私は年に7、8回ほど親戚や知人の法事に出席する。昔はむしろ結婚式に招かれることの方が多かったが、最近は圧倒的に葬儀と法事が多くなった。年をとるにつれて葬儀が増えていくことは仕方のないことだと思っている。

しかし、最近の法事は大分変わってきたと思う ...

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古いフィルム(2) ドウラードス植民地事業

この古いフィルムには、前回記載したシーン以外に、私の一家と深い関わりのある映像が含まれている。それは父が一生を賭けたドウラードス植民地事業に関してである。今でも私の手元にこの古い映像が残っていることに、私は不思議な因縁を感じずにはおれない。

私の父母一家は、1945年にパラナ州のアプカラナ市に入った。歯の技工士の職業と、耕地周りの仮の歯医者の仕事もしていた父は、その傍ら、終戦後、勝ち組が刊行していた雑誌「光輝」(ひかり)のパラナ州支部長でもあった。

そのため、当時家の前には雑誌「光輝」の看板がたっていた。ある時、認識派のメンバー達が、それを写真に撮り、政治警察に渡したのだ ...

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