>>その3戦後-使命の終わり1945年(昭和20年)8月17日付(7394号)と、3日後の20日付(7395号)の間には、大きな断絶がある。17日付までの『ユタ日報』は、普通の日本語新聞と同じように右綴じの形をとっていた。ところが、20日付以降、終刊までは、縦書きの新聞には本来馴染まない左綴じの形が採用されることになったのである。その間の事情は、よくわからないのだが、何とも象徴的な変化であるように思われる。
太平洋戦争が日本の敗戦で終結すると、『ユタ日報』には、敗戦国となった祖国=日本の状況を報じる記事が、次々と掲載されることとなった。最初は通信社記事が主だったが、やがて日本に駐留した二世兵士がもたらす情報が紙面に載るようになった。程なくして、日本の窮状を知った日系人の間から「祖国救済運動」が起こると、『ユタ日報』はこれを支援する呼掛けを積極的に行った。
しかし、収容所が閉鎖され、西海岸への日系人の帰還が本格化し、日系新聞が復刊したり、新たに創刊されたりし始めた1946年(昭和21年)から翌年にかけて、『ユタ日報』は戦時下で獲得した読者を一挙に失い、各地の「支社・支局」も消え去ってしまった。残された部数は2,000部余り。これは『ユタ日報』が、元々の地域紙に若干の部数を上乗せした新聞となったことを意味している。これ以降、終刊まで、世代交替が進むとともに部数は徐々に減少した。戦後の…