Naori Shiraishi

1999年東京都出身。東京学芸大学附属高等学校2年時にUnited World College派遣生として英国Atlantic Collegeに留学し、同校卒業。現在、京都大学法学部1年在学中。

(2019年10月 更新)

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Crónicas Nikkei 8 — Héroes Nikkei: Pioneros, Modelos a Seguir e Inspiraciones

私のルーツ ~大藤松五郎の足跡~

1869年春、戊辰戦争で敗れた会津藩士の一団が、当時ゴールドラッシュに沸いたカリフォルニアに渡り「若松コロニー」という入植地を築きました。彼らに同行し、のちに現地でワイン醸造を学び、その後帰国して日本にワインを広めたと言われる大藤松五郎(おおとうまつごろう)が、私にとってのヒーローです。松五郎は、私の高祖母の父、つまりひいひいひいおじいさんで、私はその6代目の子孫にあたります。子どもの頃から英語を学んでいた私は、いつか海外に行って自分の知らない世界を見てみたい、色々な人と関わってみたいという願望を持っていました。その夢を叶えるため、高校生のときにイギリスに留学しましたが、私の先祖が、150年前に同じように日本を出て海を渡ったとは思いもしませんでした。なにか運命的なつながりを感じます。

私が松五郎という存在を知り、調べてみようと思ったきっかけは、6年前に祖母が発した一言でした。「さくさん(私の高祖母)の父は明治初期にアメリカへ渡り、さくさんはそこで生まれたとか…」。当時中学生だった私は、開国して間もない日本から海外に渡ったさくおばあちゃんの父親という人はどういう人物だったのか、非常に興味を持ちました。そこで、中学3年の夏休みの自由研究で、自分のルーツである高祖母の父、大藤松五郎について調査することにしたのです。

しかし、調査すると言っても、何の手がかりもありません。まずはインターネットで「大藤松五郎」と検索していくことから始めました。調査を進めると、彼はどうやら明治2年(1869年)に、汽船チャイナ号という船で若松コロニーという開拓民の一員として渡米したのではないかという推測が浮かんできました。そこで、若松コロニーの入植地にあたるカリフォルニア州のサンフランシスコ総領事館に問い合わせところ、若松コロニーの保存団体であるAmerican River Conservancy (ARC)を紹介してくださったのです。その後ARCに大藤松五郎について問い合わせた結果、若松コロニーの研究に非常に精力的に取り組んでいる方々が丁寧に対応してくださいました。彼らは若松コロニーの入植者が日本に帰国したという確証がなかったため、まさか日本の一中学生から「自分が若松コロニーの子孫である」という連絡をもらうとは思っていなかったそうです。私も松五郎についての情報が皆無であったので、ARCから意欲的な返信メールが届くとは思っていませんでした。当時ARCとのメールのやり取りは、歴史的出来事が少しずつ解明されていく大変衝撃的なものでした。150年前の松五郎の存在が証明され、現在の自分と繋がったときの感動は今でも忘れることができません。

これらの調査により、大藤松五郎は1869年に若松コロニーという移民団の一員の大工として渡米したことが確認できました。コロニーは経済的な問題や不適な気候条件によって2年で崩壊したものの、松五郎はその後日本に帰国したということも判明しました。私は次に、松五郎の帰国後の生活を調べることにしました。すでに帰国後、現在の新宿御苑の前身である内藤新宿試験場でトマトの缶詰加工に立ち会ったことがわかっていたので、新宿御苑の「新宿御苑の歴史」という展示会に足を運び、資料に目を通してみることにしました。残念なことに、太平洋戦争の空襲で多くの資料が焼失し、あまり情報は残っていませんでしたが、松五郎の勤務記録を見つけることができました。また、松五郎に関する文献も3冊ほど見つけました。それらの資料によると、アメリカで果樹栽培と醸造学を学んだ松五郎は、帰国後東京でトマトの缶詰加工に立ち会い、その後は山梨のブドウ酒醸造所の主任技師として働いたそうです。こうして、「開拓者」に加えて「技術者」としての大藤松五郎という人物像が明らかになったところで、私の中学3年生の夏休みの自由研究は終わりました。

2019年は若松コロニー入植150周年の記念の年であり、6月にはARC主催の記念イベント「若松フェスト150」が開かれました。私は光栄にも招待を受け ...

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