Shigeo Nakamura

立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

移住地に来た理由

移住地に暮らした人びとが、そもそも日本を出ることになった理由はさまざまだ。 ブラジルに来ることを決めたいきさつを話してくれるKYさんの脳裏には、ある映像が鮮明に蘇るようだ。 KYさんの故郷は山の中にあった。村人の暮らしは山とともにあるといってよいようなところだった。KYさん一家の生業も山仕事だったから、仕事をする年齢になったら山に入るものだと思いながら成長した。そのことに抵抗があるわけでもなく、疑問を感じたこともなかった。 ここでこのまま大人になるのはなんとも気がすすまないと感じるようになったのは、十代半ばを過ぎた頃だったという。きっかけは、学校帰りにしばしば遭遇するようになったある光景だった。 通学路に山の入り口があった。山仕事の男たちはそこから山に入り、何日も木を伐り、伐った木を運び出したりして働くのだ。男たちのそんな姿が、KYさんにはおなじみのものだった。 ところがある時期から少し様子が変わってきた。 学校の行きかえり、KY少年は、山の入り口のところでたむろする大勢の屈強な男たちを見かけるようになる。男たちは山に入ろうとせず、明るいうちか ら酒を飲み、博打に興じていた。その様子はなんとも不健全で、あたりに近寄りたくない雰囲気を醸し出していた。仕事もせずに遊び暮らす大人たちの姿に、少 年はひどく失望を感じた。 「もうあと何年かすればあの中に入らなければならないかと思うと、...

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ブラジル国、ニッポン村だより

ブラジルのなかの日本人移住地のなかのブラジル人

いくら日本人移住地だとはいってもブラジル人が一切住んでいなかったわけではない。少ないときでも人口の1割程度はブラジル人が占めていた。とはいっても、それはやはり異常な数字には違いないが。 ブラジルでは、いつも北の方からサンパウロ方面に向けた労働者の移動があるようだ。それは時々、はっきりした理由があって大きな流れになるが、どうやらサンパウロに行けばいいことがあるらしい、という程度の漠然とした期待感が北の人たちにはわけもたれているらしい。 ATさんが子供のころ、一家はやはり北の町からサンパウロを目指して出発した。その途中、もうすぐサンパウロに到着するという段になって、一足先に 来ていた親戚から、自分がいま住んでいる町に来れば仕事があるとの情報がもたらされ、進路はそれに沿って微妙に変更されることになる。家族を乗せたカミヨ ン(軽トラック)はサンパウロをそれ、はるか奥地の、まだできて間もない町を目指すことになった。 途中から一行に加わった親戚の道案内で野原の道をずっと進んでいくと、ひとつ橋を渡ったあたりから、ようやくちらほら人と行き違うようになった。興味津々に人びとの顔を眺めていたATさんだったが、感心のあまりとうとうその親戚に声をかけた。 「おばちゃん、なんてまあ大きな家族だろう!!」 思い出しながらゲラゲラ笑うATさんの説明によると、橋を境に一行は日本人移住地に入っていたが、日本人...

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ブラジル国、ニッポン村だより

移住地野球の風景

ブラジルといえばサッカー(ブラジルではフチボーラという)だ、という印象を多くの日本人は持っているだろう。ブラジル人は一人の例外もなくサッ カーをやっていると信じられていて、路地裏でぼろぼろになったボールを追いかける子供たちのいる風景が自然と頭に浮かんでくる。もちろん実際のブラジルで は、サッカー以外のスポーツも盛んで、バレーボールやハンドボール人口もそうとうなものだ。 日系人はあまりサッカーをやらないグループのようだ。「サッカーとサンバはジャポネスにはやらせるな」などというひどい言い方まであるそうだが、そ ういえばサッカーボールをける日系人の姿はあまり見かけないように思う。ではいったい日系人に人気の高いスポーツは何なのか?最近でこそだいぶん多様化し ているようだが、今でもやっぱり野球というのは日系人と結びつきの強いスポーツのようだ。 移住地ができた昭和初期は、日本では大学野球が大人気だった。そんな日本から直接移住地にやってきた人たちにとって、野球は魅力的なスポーツだった ろう。問題は、そんな暇があったのか、グラウンドや用具はどうするのか、ということだ。前者についていえば、案外余裕はあったようだ。戦前日本人のところ で働いていたブラジル人の目には、忙しそうなのは女性ばかり、と映ったそうだから、男どもは力をもてあましていたのではないだろうか。グラウンドを整備 し、グラブやバット(...

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ブラジル国、ニッポン村だより

日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち

学校生活にまつわる話にはまだいろいろ面白いものがある。前回で終わりにするには惜しいのでもう少し続けよう。 日本の尋常小学校教育だけが行われていた時代が幕を閉じると、州政府からようやく正式に教師たちが派遣され、ブラジルの教育がはじまった。その後ブ ラジルのナショナリズム運動が盛んになって、尋常小学校教育どころか日本語を使った教育は一切できなくなるわけだが、それまでの一時期は尋常小学校とブラ ジルの小学校が共存することになった。移住地の子供たちは、ふたつの学校に通わなければならなくなった。祖国日本の子供たちに比べると、その頃の移住地の 子供たちはずいぶんと忙しかったことだろう。もっとも学校で過ごす時間がそんな風に長かったからこそ、同窓生たちはいまだに仲がよいのかもしれない。 一日は午前と午後にわけられ、校舎はふたつにわけられて、ふたつの学校は存在した。従来の尋常小学校が「日本語学校(あるいはニッポン学校)」、ブ ラジルの小学校(グルッポと言う)が「ブラジル学校」と呼ばれた。子供たちは学年によって、昼ごはんをはさんで日本語学校生になったりブラジル学校生に なったりした。 厳しい先生のいた日本語学校に比べ、ブラジル学校での生徒たちの授業態度は、あまり誉められたものではなかったという話がある。いずれ日本に帰るつ もりでいる人の中には、子どもに向かってきっぱりと「日本語だけ勉強していれば...

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ブラジル国、ニッポン村だより

日本人移住地の話(2)― 学校生活

前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。 この学校で行われたのは、「日本の尋常小学校と同じ教育」だったと移民の歴史の本には書かれている。 実際、授業の大半は、日本人教師が、日本語を使って、日本から取り寄せた教科書で教えていた。ポルトガル語の教師としてブラジル人を何度か呼んだけれどもいつかなかったのだという。 「ブラジルに来ているのにねえ、今から思えばまったくおかしな話よね」と卒業生KMさんが苦笑まじりに言うように、日本の地理をおぼえさせられ、歴史は、「国史」として日本史を学んだ。 学科だけが日本式ではない。卒業生が「うさぎ追いしかの山♪」などの日本の歌を今でもきちんと歌えるのは、家で親たちが歌ったからだけではなく、学校に唱歌の時間があったからだ。体操の時間には、軍隊風の行進もあったそうだ。 運動会や学芸会ももちろんあった。舞台のある講堂、トラックのあるグラウンドはきちんと整っていた。 移住地をあげて行われる運動会は、一大イベントだった。その光景は、地域全体で祭りのようにして楽しまれた、戦前日本の小学校で見られた運動会のそれと、きっと同じよ...

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