Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その1/4

テキサスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。カウボーイ、バーベキュー、NASA(米航空宇宙局)・・・。ヒューストンなど先端産業で知られる都市もあるが、どちらかといえば、野趣あふれる、昔ながらのアメリカといったイメージが強いのではないか。

メキシコ湾に面し、全米でアラスカに次いで面積の広いこの州(日本の約1.8倍)は、独立心の強い風土があり、テキサスのアメリカ人はAmerican(アメリカ人)ではなくTexan(テキサス人)だという言葉も聞かれるくらいだ。

そのいかにもアメリカといった土地に、100年以上前、何人もの日本人が大規模な米作りに挑み入植した。

日本が開国してまだ30年余 ...

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その3/3

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フィッシャーに重用された後に独立

約4年間働いた後、重三氏は独立して兄の長太郎氏とマイアミビーチ市内で園芸・造園のための「Miami Beach Nurseries」という“店”を開いた。「Nurseries」というのは、植物を育てて管理しそれを販売するという業種だ。まもなくして長太郎氏は日本に帰国し重三氏が事業を切り盛りした。

「日本に帰ることがあったとき、フィッシャー自身が重三のために紹介状を書いてくれたんです。いまでもそれは取ってあります」と、ジョーさんが保管していた手紙を見せてくれた。

フィーシャーの自署があるタイプされた手紙は、1920年5月10日付。そこには、「彼は非常に能力があるばかりでなく、あらゆる点で正直で信頼できる人物である ...

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その2/3

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実業家、カール・フィッシャーの下で

遅れたフロンティアであるフロリダがアメリカ合衆国の1州に加わったのが1845年。アメリカインディアンが暮らす一部を除いて、この州の南部はほぼ未開で、無人島だったマイアミビーチもこのころから農園の開発が行われた。

1896年に北から延びた鉄道がマイアミまで敷かれると、避寒地として人気を集めたこの地にはホテルが立ち並び、マイアミビーチでも不動産の開発が始まる。この事業に乗り出したなかで最も有名な人物がカール・フィッシャーだった。

中西部インディアナポリス出身の彼は、さまざまな事業を手掛け有名なインディアナポリスのカーレースの発展にも投資、貢献、アメリカを横断する高速道路の建設も実現した実業家だ。1910年にバケーションでマイアミを訪れたのをきっかけに、マイアミビーチの開発に乗り出した。

土地を取得し木々を根こそぎ伐採し整地、その一方で浚渫による土砂を利用して土地をならし宅地として分譲。並行して道路を造りホテルを建設した。彼が目指したのは、富裕層のためのリゾート建設で、島を横切る通りには椰子の木を植えて ...

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その1/3

毎朝テレビの天気予報では、江ノ島と湘南海岸の様子がよく映し出される。海面に半身を出したマッコウクジラのようにも見える島とその周辺のビーチは、首都圏の海沿いの観光地としても知名度が高いので、便利に使われるのだろう。

いまは、海水浴客などでにぎわうこの観光スポットは、神奈川県の藤沢市に含まれる。両隣の鎌倉、茅ヶ崎の2市などと併せてこのあたりの太平洋岸一帯の海岸は湘南海岸と呼ばれるが、そのほぼ中央にシンボル的に浮かんでいるのが江ノ島である。

江ノ島(藤沢)とマイアミビーチ

かつて地元の観光協会では、一帯を“東洋のマイアミ”として広く宣伝しようとしたことがある。

米フロリダ州にあり、避寒リゾートとして世界的にも有名な地名にあやかって同じ海沿いの観光地である地元を売り出そうとしたのだった。

それがきっかけで、1959年には、藤沢市はマイアミビーチ市と姉妹都市提携を結ぶことになった。

最初はマイアミ市に姉妹都市提携を申し入れたのだが、同市はすでに別の都市と姉妹都市提携しており断られた ...

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その2

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戦争による危機を超えて

最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。

コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店などを開いたりすることはなかった。

こうして発展していったコロニーでは1940年には、69の日本人家族が、3700エーカー以上を耕作していたという。太平洋戦争が勃発したのちは、彼らは強制収容所に送られるが、その間所有地の管理を契約して第三者に任せることができた。

戦後もコロニーはそのまま残り ...

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