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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第6回 原爆投下時に記者として

ある人物について、詳しく知ろうとするならまず親族にあたるのが常道だろう。加藤新一については、彼が執筆・編集した「米國日系人百年史」のなかの自身のプロフィールのなかに、妻と子についての記載がある。妻はすでに他界されているだろうから、「一子」として紹介されている「ケネス直」についてあたってみることにした。

生まれは、日本かアメリカかわからないが、ケネスというのが英語名で直が日本語名だと思われるケネスは、広島の名門私立である修道学園高校を卒業している。この学校は、1725(享保10)年に広島藩五代藩主浅野吉長が開いた藩校「講学所」に端を発している。現在では、中高一貫の修道中学・高校のほか広島修道大学も有している。

ケネスは、高校卒業後はアメリカにわたり、この本が発刊された1961年には、東京銀行羅府支店、つまりロサンゼルス支店に勤務とある。横浜正金銀行を実質的な前身とする東京銀行は、日本で唯一の外国為替銀行でもあったが、1996年に三菱銀行と合併し、やがてその名は、銀行名から消えていった。

私は、知人の父親がかつて東京銀行のアメリカの支店に勤務していたのを思い出し、知人のルートで60年代に東京銀行のサンフランシスコ支店にいた人を訪ね、61年当時のロサンゼルス支店を知る人がわかれば、そこからケネス加藤にたどり着けないかと考えた。しかし、残念ながら当時のことを知る人はいなかった。


中国新聞時代の加藤を探る

2012年の連載記事をもとに中国新聞から出版された『1945 原爆と中国新聞』

加藤新一本人の親族の情報もすぐには得られそうもないと判断し、次のルートとして、「百年史」を出版した新日米新聞社からたどって行くことを考えた。しかし、新日米新聞社は、ロサンゼルスで短命に終わったようで、その痕跡をたどるのはかなり難しそうだった。次なる手段として考えたのが、日米開戦後に広島に帰った加藤が勤めた中国新聞社をあたることだった。再び、ウェブ上で加藤新一と中国新聞などで検索を繰り返した。すると、ある新聞記事に行き当たった。

その記事は、中国新聞(本社・広島市)の2012年3月24日(土曜)付の「1945 原爆と中国新聞 ①広島壊滅」だった。どうやら連載・特集の第一回にあたる記事らしく、記事の前文にはこうあった。

「中国新聞は5月5日に創刊120周年を迎える。放送やデジタル分野でも情報を届ける総合メディア企業の営みに取り組む。この間幾多の苦難があった。1945年8月6日の原爆投下により社員の犠牲者は100人を超え、本社は全焼した。生き残った社員も傷つき、多くが肉親を失っていた。未曽有の事態から新聞発行を再開し、救援と復興を訴え、ヒロシマの願いを伝えていく。報道機関の被爆と再出発への一歩を、関係する記録や証言から掘り起こす。戦争と「核」時代の始まりは今も何を問いかけているのか。5月5日までの毎週土曜日、7回にわたり伝える。 (編集委員・西本雅実)」


原爆と新聞を検証する記事のなかに

前文からは、戦前から広島で新聞を発行し続け、被爆した報道機関ならではの、原爆と新聞を検証する連載であることが想像できた。

この第1回は、「爆心地900メートル 本社全壊」「炎の中駆け付ける」の見出しがつき、原爆の落とされた8月6日当時の広島の報道機関の状況を説明し、原爆投下前後の同社社員の行動や証言をいくつか紹介している。そのひとつが加藤新一のものだった。

記事にはこうあった。

「平良村(廿日市市)から通っていた報道部長の加藤新一さん=当時(44)=は、宮島線己斐駅(西広島駅)で『市内電車への乗(り)替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を通していた』(71年に書いた『原爆地獄を往く』)

これによれば、加藤は、市内の本社へ出勤するところだったようだ。別の箇所ではこう書かれていた。

「中国新聞本社は、爆心地から東に約900メートル。

加藤さんは『断末魔の声をかけられるのを耳にしながら(ゆるしてください。どうにもならぬのです)と心に詫びつつ』正午本社にたどり着いた。

輪転機2台を据えた鉄筋3階の本社も、同盟通信広島支社や広島中央放送局(NHK)の分室などが入っていた11階の新館も『外部こそ、そのままだが、屋内は轟轟(ごうごう)と音を立てて燃えている』。それを見て、加藤さんは『万事休す』と思った。」

8月6日の朝、広島のまちなかにいた加藤新一の姿と声がそこにあった。「米國日系人百年史」を書くために全米を車で回った加藤は、その16年前、新聞記者としてときに断末魔の声を聞きながら爆心地近くを歩き回るという壮絶な経験をしていた。


ジュノー博士の通訳兼案内として

さらに「原爆と中国新聞」の連載記事の回を追っていくと、第6回「報道と再びの災禍」で再び加藤新一の名前が出てきた。この回では、原爆投下からほぼ1ヵ月後の中国新聞の報道体制などについて書かれている。

それによると、中国新聞は、原爆で本社が炎上するなど壊滅的な被害を受けたが、9月3日になんとか自力で再発行にこぎつけ、同日現地入りした米国人記者団や、その5日後に来た米軍の原爆調査団(アメリカの原爆開発『マンハッタン計画』に携わったトーマス・ファーレル准将が率いる)、そして調査団に同行した赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の動向について紹介した。

これに関連して連載記事のなかで次のように書かれている。

「博士の通訳兼案内をしたのは、報道部長の加藤新一さん=当時(44)だった。『県から頼まれ全市をジープに同乗して』回った(67年、ヒバクシャ健康手帳に添えた文書)。翌11日付では、厳島支局長の沼田利平さん=同(43)=が調査団に取材した記事が載る。」

「2人は10代のころ米国に渡り、ロサンゼルスで刊行した邦字紙『米国産業日報』の元編集者でもあった(「南加州日本人史」57年刊)。沼田さんは日米開戦前年の40年に、加藤さんは開戦に伴う翌42年の第1次日米交換船で帰郷した。」

ここでも加藤が駆け回っていた。今度はジープに同乗してアメリカ人と一緒に被爆地を回っている。


日米を知る者としての複雑な思い? 

アメリカの高校を出た加藤は、アメリカ人への対処の仕方や英語力などを買われてか、あるいは自ら買って出てのことか、この任務にあたったのだろう。アメリカで青春時代を送り、それなりの影響と受けただろう加藤が、どんな思いで荒廃した地と無残な死を遂げた故郷の人たちの姿を目にしながら、アメリカ人の通訳と案内という仕事に携わったのか。想像の域を出ないが、複雑なものがあっただろう。

それは、記事中にある沼田利平にとっても同じだったろう。さらに言えば、広島からは多くの人が移民として海外にわたり、また帰国した人たちがいることを思えば、そのなかの2人である加藤や沼田のような人は広島には多く、アメリカの日系アメリカ人と同じように戦争、原爆の惨禍によって2つの国の間で、引き裂かれる思いをした広島人もまた少なくなかっただろう。

新聞記者として特異な体験をした加藤だが、1952年10月には第一回世界連邦アジア会議広島大会事務局長をも勤めている。これもまた加藤の別の活動の一片なのか。加藤の日本での仕事や活動はどんなものだったのか。さらに調べを続けようとしたとき、偶然にもある古い知人とのつながりから一気に加藤の全体像が見えてきた。

(敬称略)

第7回 >>

 

© 2021 Ryusuke Kawai

a-bomb hiroshima journalist Shin-Issei

Sobre esta serie

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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