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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3

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公民権運動とアジア系アメリカ人運動 

実際1960年代の日系社会では、若者のドラッグの乱用や、収容所から戻ってきた後、生活を立て直せず貧困の中で暮らしていた高齢の一世らの社会福祉といった問題が出てきていました。しかしそれは「モデルマイノリティー」であるべき日系コミュニティーでは存在しないものとされ、いっそう問題を悪化させることになったのです。

カレン・イシヅカさん

当時、ソーシャルワーカーとして若者のドラッグ乱用問題に取り組んでいた一人が、全米日系人博物館チーフキュレーターのカレン・イシヅカさんです。

「私たち三世は誰よりも優秀であり、問題を起こさず、優れたアメリカ人であることを期待されました。しかしそれがなぜなのか、親たちは決して説明してくれなかったのです」。

収容所に送られた一世や二世の大半はその経験を口にすることはなく、そのために三世の多くは、自らの生まれた場所や家族の歴史を知らないまま成長することになりました。三世が英語ではキャンプと呼ばれる「強制収容所」のことを知るのは1960年代後半、大学に入ってからでした。

「一世や二世にとって収容はあまりにも深い恥と怒りの感情を伴うものでしたから、その重荷を次の世代に負わせたくないと考えたのでしょう」(カレン)。

三世であるカレン自身も、家族が送られた強制収容所のことを理解したのは、大学に進学した1960年代後半のことでした。

1960年代は公民権運動が活発化した変化の時代でした。各地でデモが行われ、1965年には公民権運動の活動家マルコムXの暗殺、「血の日曜日事件」と言われるアラバマ州セルマでのデモ隊への暴力事件、1968年にはマーティン・ルーサー・キングJr.の暗殺など命がけの運動が繰り広げられました。その運動の中で1964年には人種や宗教、性別、出身国などによる差別を禁じる「公民権法」が、1965年には投票に関する法律における人種差別や言語少数者に対する差別を禁じる「投票権法」が、1968年には不動産の売買や賃貸における人種や宗教、性別、出身国、身体的障害、家族構成などによる差別を禁じる「公正住宅法」がと、差別を是正する法律が次々と成立していったのです。

黒人たちが長年の差別に対して立ち上がり、命がけで自らの権利を主張していくのを見て、アジア系アメリカ人も自らのアイデンティティーと権利について行動を起こし始めます。

「アジア系アメリカ人運動は、黒人の公民権運動や、その後も続く黒人差別に対する『ブラックパワー』運動に大きくインスパイアされました。私たちの闘いは『誰よりも良いアメリカ人になること』ではなくて、私たちが闘っているのは白人至上主義的な社会構造であるのだと。私たちは黒人ではなく、もちろん白人でもありませんでしたが、闘いの相手は共通したものだと気付いたのです」(カレン)。

共闘の例で有名なものが、マルコムXとユリ・コチヤマの交友です。ユリは収容所を出た後、ニューヨークで新婚生活を始めます。職場や低所得者用公営団地で黒人コミュニティーと暮らす中で、公民権運動に関わり、マルコムXと親しく交流するようになりました。しかしその友情は彼の暗殺で唐突に終わりを告げるのです。彼が床に倒れたとき駆け寄って頭を支えたユリはマルコムXを追悼しこう書いています。「残された者の心に生きることは、死なないことである。したがって、マルコムは生きている!」と。「立ち上がって行動することが生きるということ」とも言ったユリは、敬愛するマルコムX同様、2014年に生涯を閉じるまで、公民権運動、アジア系アメリカ人運動、反核運動と信念に身を捧げ、その後の世代に大きな影響を与えました。

「モデルマイノリティー」であったはずのアジア系が、この有色人種による闘いに目覚めた背景には、公民権運動と同時に1950年代、1960年代に展開されていたベトナム反戦運動がありました。ベトナム戦争では日系人を含むアジア系アメリカ人も例外なく徴兵されていきました。アジア系アメリカ人にとっては、自らの国で人種差別を受ける一方で、戦場では自分と同じような外見のベトナム人の殺害を命じられ、その敵を指す差別的な言葉で呼ばれることも、戦場で敵と間違えられることもあったのです。そうした不条理を目の当たりにし、彼らは、ベトナム戦争を有色人種を虐げる道理の通らない戦争として反戦運動を繰り広げたのです。

どんなに「良いアメリカ人」になっても、いつまでも「外国人」のように社会の周縁に追いやられていたアジア系アメリカ人。この「アジア系アメリカ人」という言葉すら1968年まで一般的でなく、彼らは「東洋人」と外国人のように呼ばれていたのです。二世の歴史家であり公民権活動家であるユウジ・イチオカが1968年に名付けた「アジア系アメリカ人」とは、人種差別や外国人恐怖(ゼノフォビア)の対象となっていたアジア系が、自分たちもアメリカ人であるのだと声を上げるために自ら選択した、連帯のアイデンティティーなのです。

カレンは自らを「アジア系アメリカ人」と捉えた時のことをこう振り返ります。「共に有色人種であり、互いが力になるのだと理解した時、それはとても勇気付けられる経験でした。私たちはその連帯によって『マイノリティー』ではなく、初めて『マジョリティー』になったのです」。

1960年代後半、アジア系はステレオタイプを超えて、自らのアメリカ人としての権利を主張し、同時に各地の大学に、エスニックスタディーズ、アジア系アメリカ人研究を設立し、白人のアメリカ史ではほとんど言及されない有色人種の歴史を、アメリカの歴史として収集し保存し研究し伝えていくことを目指しました。

マイクはその中核の一つであるUCLAのアジア系アメリカ人研究センターの設立メンバーの一人でした。今、アメリカに来た日本人移民と、彼らを祖先に持つ日系アメリカ人の歴史が紛れもなくこのアメリカの歴史として存在し、私たちがそれを知ることができるのは、こうして歴史を記録し次世代に手渡していこうとした三世たちの献身によるものなのです。そして、それは黒人たちが声を上げて作った時代と空間の中で生まれたものだったのです。

リドレス運動と黒人コミュニティーの支援

黒人の公民権運動は、アジア系アメリカ人運動に影響を与えたばかりでなく、戦後の移民にも道を付けました。

「1964年、公民権法が成立し、1965年には投票権法が成立します。これらを実現するために黒人コミュニティーは必死に運動を起こし、この運動が醸成した雰囲気の中で、1965年には改正移民法が成立するのです」(マイク)。

この「1965年改正移民法」は1924年の移民法が導入した国別の移民割当制限を撤廃したもの。1924年から1952年までは一切の移民を禁じられ、1952年以後は年間わずかに200人弱の移民しか認められていなかった日本に対しても、他の国と同じようにアメリカへの移民の扉が開かれたのです。

「この移民法にしても、公民権法や公正住宅法にしても、黒人の奮闘によって私たち他のマイノリティーは大きな恩恵を受けてきました」(マイク)。

公民権運動がアジア系アメリカ人運動を生み、その中でマイノリティーの権利の意識と自らのルーツへ関心を持ち始めた三世たち。そこで彼らが見つけたのは、自らの「日系」のアイデンティティーの誇りと、一世、二世が長く口をつぐんできた強制収容の歴史でした。人種差別を是正しようとそれまで黒人や他のアジア系と共に闘ってきた三世たちは、人種差別がまさに自分たちのコミュニティーと切り離せないものであることを知るのです。彼らは強制収容の歴史を自らのコミュニティーに対する烙印ではなく、人種差別が起こした過ちと捉え「リドレス運動」を繰り広げました。リドレスとは「過ちを正す」ということ。これは国が犯した過ちによって失われたアイデンティティーと、公民権と、民主主義を取り戻す運動であったのです。

1980年、戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)が発足。1981年に全米各地で公聴会が行われ、それまで何十年も収容経験を語らずにきた一世や二世ら約750名が証言します。そして1982年、1983年にかけて同委員会は、日系人の強制立ち退き・収容は軍事的必要性があったものではなく、「人種差別」「戦時下のヒステリー」「政治指導者の失政」による不当な政策だと結論付け、元収容者に対する補償金の支払いを勧告したのです。

1987年、CWRICの勧告をもとにしたリドレスの法案「下院442法案」の審議が行われました。その第100議会の議場に立ったのはカリフォルニア州から選出された黒人の議員、ロン・デラムズでした。ロンは1942年、日系人が強制収容所に送られた時のことを話し始めました。

「私の家は西オークランドのウッド通りの中央にあり、角には日系人の家族が経営する食料品店がありました。私と同い年のその店の日系人の少年、ローランドは私の親友でした。議長、忘れられない記憶があるのです。あの日、陸軍のトラックがやって来て、私の親友を連れ去った日のことです。その記憶は6歳の私の脳裏に深く刻まれてしまったのです。親友のローランドの目に浮かんだ恐怖と自分の家から出て行かなくてはならないつらさを、私は決して忘れることはできません」。

「行きたくない!」と叫ぶローランドに「僕の友達を連れて行かないで!」と叫び返したロン。そして大人になり連邦議員となったロンは、リドレス法案に賛同するよう呼びかけます。

「これは、たまたま黄色の肌を持ち、たまたま祖先が日本人であるというだけで、何千ものアメリカ人が味わわなくてはならなかった痛みに対する補償なのです。この黒人のアメリカ人は、アジア系アメリカ人の兄弟、姉妹と共にこの問題について声を上げます。この法案に賛同してください。そして戻ってこられるかどうかも分からぬまま、叫び声を上げてトラックで連れて行かれたローランドの目に浮かんでいた痛みと、心中の悲しみを、あなたも理解していると彼に知らせてやってください!」。

長い闘いの後、1988年にロナルド・レーガン大統領が署名し「市民の自由法」が成立します。これは日系人の強制立ち退き・収容の過ちを認めて謝罪し、生存する元収容者1人あたりに2万ドルの補償金の支払いを定めたものでした。日系人の強制収容に対するリドレスが成立したのは、日系コミュニティーが力を注いだのみならず、これが日系人に限らず、あらゆるマイノリティーに対する人種差別の問題であることを、黒人をはじめとするさまざまなマイノリティーが理解し、二度と繰り返されることがないようにとリドレスの実現に力を結集したからなのです。

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* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

© 2020 Masako Miki / Lighthouse

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