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青年海外協力隊員から陶彫作家、モジお茶屋敷へ — その1

中谷哲昇さん

来社対応を終えて、なにげなく編集部入口の古本売り場をみたら、見覚えのある特徴的なヒゲを持つ男性の後姿がみえた。「珍しい人が来られましたね」と声をかけたら、やっぱりモジ市コクエラ在住の陶芸家・中谷哲昇さん(あきのり、76、大阪府大阪市出身)だった。

中谷さんは「本を出したんで、持ってきたんです」と自分の作品集『AKINORI NAKATANI sua obra e sua vida』(ポルトガル語、Enock Sacramento, Giovana Delagracia)をポンと渡した。開いてみてアッと驚いた。本当はこういう作品を作ることを本業にした人だったんだ、と今更ながらに感心した。生活雑器ではなく、陶彫(彫刻としての陶芸)だ。

というのも、正直言って中谷さんには「金にもならないカザロン・ド・シャ復元運動をしゃにむに進める不思議な人物」という印象が強かった。

名だたる財閥がブラジル上陸した1920年代

「カザロン・ド・シャ」はモジ市コクエラ区がまだ紅茶の産地だったころに建てられた製茶工場の別名だ。日本の片倉財閥の中核企業「片倉製糸」の今井五介が私財で土地を購入し、農学士の揮旗(ふりはた)深志、大工の花岡一男が建設に関わって、戦争中の1942年に完成した。

第2次大戦でインド・ヨーロッパ間の国交が断絶し、紅茶の価格が高騰したことをきっかけに、本格的な製茶工場として60年代まで利用された。その後は倉庫として使われ、86年には美術、歴史、考古学的な価値が認められて連邦文化財に指定されたが、荒廃が進んでいた。

「片倉財閥」は戦後GHQによって解体されたぐらい大きかった。「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目・片倉兼太郎(1863―1934)は、父が長野県諏訪郡に創業した製糸会社を拡大発展させて、県を代表する大財閥に育て上げた。彼は1922年に欧州諸国、アメリカ合衆国、中南米を長期視察した。この時にブラジルに着目したとみられる。

今井五介(犬養内閣編纂所 [Public domain])

この二代目の実弟が今井五介だ。その経済力を背景に今井五介は1918年、貴族院多額納税者議員に選出され、32年には貴族院勅選議員に任じられ、46年に死去するまで在任した。

同じ長野県諏訪郡出身の永田稠が日本力行会会長に就任して、ブラジルにアリアンサ移住地建設(1924年)を打ち出したことから、それを日本側で支援した。

2005年12月17日付本紙に掲載された中谷さんの寄稿文「カザロン・ド・シャ保存運動」によれば、《もと長野県にあった片倉製糸の当時のオーナーが私費によって、北海道大学農学部出身の農学士揮旗深志をブラジルに派遣、一九二六年片倉合名会社の名前で百七十アルケールの農園(コクエラ農場)を購入した》とある。

思えば、この1920年代後半は凄い時代だった。日本財閥の進出ラッシュといえる時期だったからだ。たとえば三菱創始者岩崎弥太郎の長男である久弥がブラジルに東山農場を創立したのも1927年。その先発隊として派遣されたのが、戦後のコロニア再編の立役者となった山本喜司誉だ。

野村證券や野村生命保険(現東京生命保険)などを創立した野村徳七が、パラナ州バンデイランテに「野村南米農場」を設立したのも1926年だ。

武藤山治(鐘淵紡績社長)がアマゾン入植を計画して南米拓殖株式会社創立に尽力し、第1回アマゾン移民送り出しを実現させたのも1929年。現地では今年、そこから90周年を祝っている。


台湾で大成功した後宮財閥の後継者の一人だった後宮武雄が慶応義塾大学の産業研究会南米視察団員として来伯したのも29年。すぐにパラナ州コルネリオ・プロコピオに2千アルケールを購入して大コーヒー農場を始めた。

そのような大きな流れの中でカザロンも作られることになった。サンパウロ州には約60の連邦文化財があるが、日本移民関係はレジストロにある海外興業株式会社(KKKK)が作った精米所と倉庫の建物群と、カザロンの2カ所のみ。貴重な建造物といえる。


バイオリンが響く和風の文化的空間、お茶屋敷

「片倉合名会社」の現地農場支配人・揮旗深志(1891―1971年、長野)は、当時まだ珍しい農学士。コロニア雑誌としては最初の本格的な出版物、月刊誌『農業のブラジル』(農事通信社)を1926年から堂々たる活字印刷で発行し、農業界を牽引した。

その揮旗が、諏訪出身の大工花岡一男に依頼して建設したのがカザロンだ。そんな長野県繋がりが強い人脈が生んだ日系名建築だ。主要部は、当地では一般的なトラス構造で洋瓦葺き。だが玄関部に和風の意匠が凝らされ、内部の柱や階段にも自然の枝ぶりをもちいた曲線的なデザインがあり、独特の雰囲気を醸し出している。コラム子が初めて実物を見たとき「和風のガウディだ」と感じた。

2011年11月の県連故郷巡りの時、参加者の藤川修子さん(よしこ、岡山県)から、終戦直後47年から3年間、カザロンで働いていた当時の貴重な体験談を聞いた。

「『釘を一本も使ってない』って、支配人がいつも自慢していたわ。あの頃、私のような茶摘み娘が2、30人も働いていたかしら。揮旗さんの息子さんはサンパウロでオーケストラに入っているとかで、夕方にバイオリンを練習しによくカザロンに来ていたわ」とうっとりした表情で思い出す。

茶摘み娘たちがせっせとお茶を揉んだり、袋につめたりする作業の手を休めた瞬間、夕陽のお茶畑を望むお茶屋敷の二階から、若い青年がバイオリンでクラシック音楽を練習する音が響く――当時の文化村コクエラを彷彿とさせる光景だ。

80年代にはすっかり朽ちて廃屋同様になっていた建物を、孤軍奮闘して1996年に協会を設立して復元運動を始め、日本移民百周年の2008年まで12年がかりで見事に実現させたのが中谷さんだ。

前述寄稿文には《私達がカザロン・ド・シャ保存運動を始めるに当たり、民間非営利団体として協会を設立、現在で九年を経過している。協会の設立に至るまでに、地元コクエラにある日本人会、モジ地域日本人会の連合体であるモジ文化協会、またサンパウロ文化協会などに保存の協力を呼びかけた。しかし反応は鈍く、結局のところ協力は得られず独自の協会設立に踏み切った。協会設立当初、保存活動に対する地元日本人会の扱いは、半ば白眼視といったところであった》ともある。

この間、中谷さんは編集部に何度も足を運んでは、カザロン復元の意義を熱く説いていたのを憶えている。彼は当時、本職については何も語らず、ひたすらカザロンの意義を語っていた。

その2 >>

 

* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2019年10月8日付)からの転載です。

 

© 2019 Masayuki Fukasawa / Nikkey Shimbun

Akinori Nakatani artist Brazil Casarão do Chá ceramist Katakura Zaibatsu Mogi tea