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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第20回 初恋の人が嫁いだと知らされた時

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。故郷のこと、過去への回想はますばかりとなる。渡米して間もなくのころのこと。郷里での初恋の女性が嫁いだと知らされ、自分がどれだけ落胆したかを姪に伝える。また、同郷でフロリダにわたった友人は列車事故に遭い亡くなったという。この事故に危うく助次も巻き込まれるところだった。

* * * * *

〈恋い慕う女性は永遠に去った〉

1962年3月27日

〈助次には、日本いるころ近くに住む年下の女性に恋をし、結婚を申し込んだことがあった。が、あいにく相手の親に反対される。この失恋も助次がアメリカにわたった大きな理由だった。〉

明ちゃん(姪)、

(中略) 56年前のこの月、船を待つ間、京都に居た。余裕がなかったので、京極も一度素通りしただけだった。京極の突き当りに焼き芋屋があった。三銭も出すと、大きな紙袋にいっぱい買えた。一ヵ月ほどの滞在だったが、ほとんど古本屋で過ごした。

一度嵐山へ行ったが、桜は既に散っていた。女の人達が近くで野菜を洗っていた。その頃はまだラバーブーツ(ゴム長靴?)がなかったのだ。アメリカで三年も辛抱すれば、千円位の金は楽々持って帰れると聞いて渡米を決めた。

旅費三百円(米貨百五十弗)を三年間働いて返す契約でやって来た。三年間スレーブ(奴隷)のような生活して借金は返したが、千円はおろか残りは帰りの旅費にも足りなかった。その頃の夏は暑くて何を植えても育たなかった。仕事はなし、魚釣りに行くか、寝転んで暮らすより外なかった。

助次が思い慕っていた女性、鬼沢はつ(助次は手紙では初子と言っている)の若き日の姿。小谷英與氏より

遊んでいても食わねばならぬ。私は新聞に広告を出して180哩(マイル)程北の地点で薪切りの仕事を見付けた。10哩ほどの山奥で掘立小屋に一人住んで一生懸命働いたが、一日の収入は僅か一弗そこそこであった。そのとき国から手紙が来た。初子さんがお嫁に行った知らせであった。

恋い慕う初子さんは永遠に私から去って行ったのだ。私は呆然自失、ただ泣くより外なかった。私は帰国を断念し、故郷との音信を絶った。爾来、五十有余年、初子さんは絶えず夢にあらわれた。先夜も私は日本に帰っていた。ホテルの一室でウツラウツラ眠っていると、隣の部室で母娘らしい二人の話し声が聞こえる。

私は耳をすました。娘の声はまぎれもない初子さんなのだ。私がハッとした刹那、無残にも夢は破れた。初子さんは齢既に70を越したお婆さんだ。

夢で見る彼女は何時も可憐な少女だ。彼女は今、京都にいる。お母さんを通して私が出した手紙はうけ取っていないとの事。美しい夢としてこのまま、胸中に秘しておこうか。それとも一度帰って逢うか。私には決心がつかんのだ。明子だったらどうする?


毎夜数時間の読書を

1962年7月9日

明さん、早速、返事ありがとう。私は痩せたが、病気ぢゃない。食欲もいいし、昼でも夜でもよく寝るが、近頃とんと夢を見ないので物足りぬ。数日前、久し振りに昼寝で見たのは渡米前の故郷の夢であった。医者の話では身体は大丈夫だが、少しくつろいだらどうかという。

毎夜、数時間、読書しても視力は少しも衰えぬ。頭痛もせぬし通じ(排便)もいい。毎日畑へ出かけるが、暑いのでほとんど何もせぬ。ただ、水瓜、メロンの種子を少し蒔いた。万一病気しても何も心配はない。親切な近所隣もあるし、大きな病院も10分間で行けるし、近くには元看護婦だった、親友の細君も住んでいる。

日本語を少しも話さぬ為か、手紙を書くのに骨が折れる。面白く書けたらと思う。何はともあれ、人生は夢である。希望に生きるより外ない。成る成らぬは時の運だ。明ちゃんはどんなペンを使っている? ペンはボールポイントに限る。25セントも出せば、上等のが買える。一昨日20本一弗で買った。何処製か分からぬが、日本製ではないようだ。何処へ行っても日本製で一杯だ。スーパーマーケットへ行けば日本の酒も売っている。日本人が居ないのは淋しいが。

毎日午後には夕立がやって来る。夜は涼しい。今やストームシーズンで11月中旬迄は油断ならぬ。今年もどうか無事を祈る。

7月9日朝 アンクル


同郷の友ら四人が事故死

1962年8月13日

美さん(義妹)、山内が死にました。細君と他の二人の同胞と同乗、近く日本に帰る人の送別会からの帰途、鉄路の踏切で汽車にはねられ、四人とも惨死したのです。私も行くことになっていたのですが、急用で行けなくなったので、難を免れました。不注意からといへば、それまでですが、これが運命というものでしょう。

汽車や飛行機に乗り遅れた為、命拾いした話はよく聞きます。これで生き残りの丹後人は私だけになりました。

日本は大変な景気で就職難等は昔の事、今ではお梅どん(大阪弁で女中さんの呼び方)等、三拝九拝、お客さんあつかいせぬと来手がない。何でも金で買えるので六畳一間に住んで居るような者でも、TVや冷蔵庫は勿論、カーまで乗り回しているとの事。金の廻りがいいのか。何所の飲屋も人で一杯だ。これは日本から帰って来た人の話だが、話半分としても大したもので、まことに結構な次第です。


1962年10月15日

美さん、お手紙ありありがとう。皆さんは丈夫で何よりです。私も無事です。こちらも少し涼しくなり、夜間、カバーがいる位です。この夏はストームも来ず至って平穏でしたが、雨が多くて困りました。

今度、米治(弟)の20回忌、脩(甥)の10回忌を営まれ、愛する人の冥福を祈られた心中、お察しします。私も米治には再会できず、脩には逢えなかったのが心残りです。

新聞で見ると、日本はまた大豊作との事、誠によろこばしい次第です。皮肉にも生野菜が払底、肉類より高いとの事、如何か食い過ぎて病気せぬよう願います。

先日、山内君の葬式には約50名程の日系が来ていました。知らない人ばかりでした。15人ほどのGIの花嫁が立ち並んでいるのがよく見えました。容貌骨格は、50年前とほとんど変わりありませんでした。多分、藷粥で育った人達でしょう。年頃は30歳前後、田舎出のように見受けました。

今日は10月15日。日一日と涼しくなって行きます。また直ぐXマスと正月です。一年中どうしていたのか、別に怠けてもいなかったが、何も出来ていない。

私は大きな家に住もうとは思いません。立派なカーを乗り回したくもありません。山海の珍味を味わうとも思いません。ただ望むのは腹が空けば喰い、疲れれば眠り、人の噂等気にかけず、自然に親しみながら日を送る事です。


満州や朝鮮移住より有望なアメリカを選んだ

1962年11月5日

美さん、今日は11月の5日、76年前、私が呱々(ここ)の声をあげた日です。何時も忘れていて後で思い出すが、今日は不思議に覚えていました。夕方、畑から帰り疲れていたのでカウチで寝転んでいると、あのアパートのレスター君がやって来て「今日は君のバースデーだ。シヨーヂャ(細君の名)が君の好きなフライドチキンとポンキンパイをこしらえて待っているから直ぐ来い」と、わざわざ迎えに来てくれた。

私が生まれたのは今の滝馬(宮津市)の家でなく、岡の裏という村はずれの墓地の近くで、今は田甫(たんぼ)になっています。私が2歳ぐらいの時、お祖父さんが無理算段して今の家を建てたのですが、借金のかた(担保、抵当の意味)に田畑の大半を取られたのが貧乏の始まりで、その後、ずっと小作をやっていました。年中、一生懸命働いても食うのがやっとこさ。

作柄でも悪いと、年の暮れに借金が払えぬ始末。僅か5円の借用証を書いた事もあります。そんな有様で村には立派な中学校があっても入学できず、府の補助のあった京都の農学校に思い切るよりなかったのです。当時は、日露戦争直後、満州や朝鮮移住が盛んでしたが、アメリカの方が有望だというのでやって来たのです。

三年ほどいて小金ためて帰るつもりでしたが、何もかも行き違い、とうとうこの国に居座ってしまったような次第です。書けば切りがありませんが、あんた既に承知の事と思いますから、この辺で止める事にします。私は相変わらず元気で畑へ出ています。


1962年12月25日

美さん、小包うけ取りました。何れも珍しい物ばかり。久し振りで故国の香りを味わいました。今日はクリスマス。でも畑の方が忙しくて終日働きました。先週は近年ではまれな寒さで作物は勿論、やっと色づいたオーレンヂも凍ってしまいました。今年もあとわずか。どうか皆さんが元気で新年を迎えられるようお祈りします。


生き残りの明治生まれはごくわずか

1963年1月×日

美さん、正月餅一週間前にうけ取りました。どうかうまく着くよう心から願っていた甲斐もなく、またカビで真っ青でした。しかしカビは表面だけのようでしたので、早速グラス瓶に密封し冷蔵庫に入れました。次のサンデー頃、取り出して見る考えですが、中身は大丈夫かもしれません。ともかくご好意ありがとうございました。

今年は例年より少し冷えるようですが、私は至って頑健、食欲もよく、夜もよく眠ります。近頃、旧い知人や友人が続々と死んで行く。ほとんどが私と同年配。死因はガンか、ハートアタック。幸い私は今のところそんな気配は少しもありませんが、少しの油断もなりません。

山内が死んでからは日本語での話し相手がなくなり、生き残りの明治生まれは極わずかで、ここ五年も経てば日本語は全く後を絶つでしょう。先夜、夢で故郷に帰っていた。あの山奥の「奥山の坊」(宮津市滝馬の字名)の山田が美しく農園化していた。

モダーンなバンガロー、菜園もあれば花壇もある。池には舟さえ浮かんでいた。何年経っても故郷は懐かしいもの。それが絶海の孤島でも鳥も通わぬ山奥でも。私は近頃あの遠い星の世界の事を想像するのです。何時か、様子が解かる時が来る。私はそれまで生きたい。宇宙の果てのその果てはと煩悶の極。自殺したあの青年詩人の事を思い出す。すき焼きが好きだった彼が目に浮かぶ。新年から感傷に走ってはいかんから、これで止める事にします。


土地を市と郡に寄付

1963年2月18日

美さん、お手紙有難う。裏日本の大雪は紙上で承っておりましたが、宮津辺までとは予想しませんでした。昔は二尺、三尺は普通の事で、百姓は豊作の前兆として喜んだものです。雪の多い冬は却って暖かで子供の頃はよく裸足で凍った上を馳せ廻ったものです。

送って頂いた正月餅は雑煮として食べましたが、味は別に変りありませんでした。カビが思ったより深入りしていたので、食べられる部分は極わずかでした。

何時の日かイロリの側で鱈腹食える日があるかもしれません。私は相変わらず丈夫です。近頃は何となくユーウツの日が多く何としても病気がちで直ぐ飽いてしまい、以前のように張り切った気になれず困っております。

何も、功成り名遂ぐと言う事ではないが、食うに困らぬというので、心がまるみ過ぎた為と思います。これは誰もが必ず一度は経験するらしく、或る者は宗教に頼り、或る者は旅行等ハビー(趣味)等で気をはぐらかす。時には渡米当時の無一物でただ希望一途に生きた境遇に立ち返ったら、と思う事があります。

如何したらいいでしょうか。こんな話が出来るのはあなただけ。ウソでもジョーダンでもありません。ともかく、こんな状態なので私のローヤーと相談し、財産の整理をすることにしました。

初めて私所有の土地の中、一百英町(一英町は日本の4反歩余)をデルレー市に長くお世話になったお礼の印に公園などとして寄付、四十英町を郡に寄付しました。農業試験場は私一生の目的の一つですが、実現不可能となったので郡の希望に添い依頼した訳です。今は余命永からぬ私。何年生きても食うだけで沢山です。


1963年3月6日

美さん、早速、お返事頂きありがとうございます。何が一番希望かと問われると、一寸返答に困りますが、今の処では旅行です。世界漫遊ですが一ヵ年もあれば充分です。最後はどうしても故郷です。故国の山河です。今だから白状しますが、故郷を思わぬ日とて、ほとんどないのです。何時か、帰ります。帰り切るという訳には行きかねますが、一、二年おきに行ったり来たりするようになるのかも知れません。

今、池掘りで多忙を極めております。故障が起らねば、二ヵ月ぐらいで完成します。ともかく人間は働くより外ありません。なまけたらおしまいです。私も気を取り直して働きます。


1963年3月30日

美さん、昨今、日本の雑誌では「クコ」が万病に効くと宣伝して居りますが、永い間高血圧で苦しんで居られるあなたは既に試みられた事と思います。私も試作したいと思いますから、種子を少しばかり至急送って頂きたいのです。種子は25か30粒位で沢山ですから航空便で願います。

この前のサンデーに、数年前住んでいたフオートロダデル市に独乙人(ドイツ人)の友人を訪ねました。その節、郊外に住む日系(二世)家族に立ち寄りましたら、他の家族も来会していたので久し振りに逢いました。子供達も三世となると、ほとんど白人並みの体格です。言葉も日本語は使わず英語ばかりです。

デルレーでも同胞の一家族が住んで居ります。東京の人達で当市の富豪のセクレタリーとしてつとめています。日本の法大出でマイアミの大学にも三年居ました。奥さんは長身で中々の美人女優さんだったそうです。二人の男の子があります。日本の古雑誌をあげたらスルメ、インスタント味噌汁、ソーメン、琵琶湖産のモロコ等珍しい日本の物を頂きました。


1963年3月

30歳の頃は、25万弗ほどの資産家に

明ちゃん、写真うけとった。それにしても明ちゃんは豪(えら)い。別嬪になったというか。昨日のおデコちゃんとはとても信じられぬ。ツンとすました感じはどこかの名家の御嬢さんだ。青春は大いにエンジョイすべしだが、度を過ごして母さんに心配かけぬように頼む。

日本の着物は美しい。優美とでもいうのか、外人があこがれるのも無理はない。絹の緞子の純白の生地に、もえるような牡丹の花。唯、目が醒めるような美しさである。流石は玲子が苦心の作だ。

算数が余り得手でない明ちゃんが会社の出納係とは一寸皮肉だ。しかし、世の中そう心配したものでない。私も小学校の頃は算術が下手で泣かされた。成績は何時も落第点ギリギリだった。お蔭でこちらに来てからも無鉄砲に仕事をした。当たったり、外れたり同じことを繰り返して今日に及んだ。

30歳の頃、25万弗程の資産家となり一流のホテルに住んで王侯のような生活した。その頃の25万弗は大したもので、この頃の百万弗以上だ。しかし、一寸した手違いからすっかり無くし、元の無一物になったばかりか、少なからぬ借金まで出来た。

私は泣きも嘆きもしなかった。また元通り根気でコツコツやったが、不景気な時代だったので、資金の調達は不可能だった。破れ小屋に住み乞食のような生活をしたのもこの時代だ。懺悔(ザンゲ)話はこれ位にして、元の話に返ろう。友人が日本の算盤(ソロバン)を習いたいというので、一挺買ってやった。寄せ算、引き算、掛け算まではどうやら出来るようになったが、最後の割り算が如何しても出来ぬ。 

たしか、掛け算の九々のようなのがあったと思うが、どうしても思い出せぬ。明ちゃん知っていたら至急知らせてくれ。割り算の九々だ。いいか。この友人は若い弁護士で大学を出たが、掛け算の九々も知らんのには驚いた。世の中には上には上があるものだ。

今年も、もう三月に入った。日一日と暖かくなって行く。京都もやがて桜の季節、観光客で賑わう事だろう。近頃、年を取った在米の一世が嫁探しに日本へ行くらしい。お茶呑み相手をという体だ。一世の未亡人は少なくないが、こうした一世の男を相手にしない。多くは裕福に暮らしている。夫が死んでやっと気楽になった。再婚して再び気ままな夫にかしずく気になれぬらしい。

一世の男の多くは頭が古くてがんこだ。日本の娘さんはこの国で中々評判がいい。二世は勿論、白人達も日本へ嫁さがしに行く者が年々増えて行く。

一時中止して居た池掘りをまた始めた。二ヶ月位で出来上がる予定だ。来年の秋頃には大きな鱒やトラウトがとれる訳だ。富士山や三保の松原、さては瀬多の長橋(注1)はおいおいだ。

(注1:瀬多の長橋=正しくは瀬田の長橋。滋賀県大津市の瀬田の唐橋のこと。古歌に「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」がある。)

クラブ向きの住宅は目下考案中。古い知人がまた二人死んだ。一人は陸中盛岡の男で、私の渡米当時、一年ほど同じ釜の飯を食った。百姓で大成功、享年76。私と同年だ。もう一人の男は近くの白人、道ばたで、カーの中で死んでいた。他殺でも自殺でもなく、よくある心臓マヒとの事。私が商売して居た頃の仲間の一人だが、これも成功して地方での資産家だった。人間の最後は百人百様だ。私自身はどうかというと、筆跡での判断では食うに困らぬし長生きするが、なぜか大森林の中で長靴ばきのまま往生をとげそうだ。

(敬称略)

続く >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

Sobre esta serie

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。