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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(1)

強制収容所を後にして、シアトルの我が家に帰ってきた日系人家族を待っていたのは、ガレージのドアに残された悪意にみちた落書きでした(Museum of History & Industry (MOHAI), Seattle; Densho ID: denshopd-i36-00007)

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そうです。青木祥子さんが前号(「子どもと本」第136号)の表紙に書かれたように、収容所を出た日系人は、長い間、負った傷をだれにも話さずに来ました。日系人には何の落ち度もなかったのですが、収容所に入れられたことで、何か自分たちに落ち度があったのかも知れないとの恥や罪の思い。話すことによって、心の底に埋めた怒りや痛みが吹き出してくることへの不安。済んだことは済んだこと、しかたがなかったとの諦め。子どもに食べさせるだけで精一杯で、他のことは考えられなかった日々。

ワシントン大学のテツデン・カシマ教授はこのような思いを「社会的記憶喪失」と呼び、次のように説明を続けます。精神的な病ではなく、集団で、ある出来事に関する感情や思い出を意識的に抑制する現象だ。監禁生活やコミュニティに亀裂を残した問題にふれることは意識的に避けた。完全に忘れたというのでもなく、意識下の彼方に葬り去り、その記憶をよび戻すには精神科医の手を借りなければいけない程でもない。同じ経験をした者どうしで収容所生活のささいなことやユーモアのある話をすることもあるけど、それ以上は決して深入りしなかった、と。1 

収容所での体験を書き綴っていたエステル・石郷がハートマウンテンを出る直前に目にしたのは———「老人が野原に行って小鳥を篭から出して、自由にしてやった。小鳥は広い広い大空に翼を広げた。精一杯飛ぼうとしたが、ほとんど飛ぶこともなくスーッと地上に落ち静かに横たわると死んでしまった」2収容所を後にした日系人は、はたして飛び立てたのでしょうか。

* * * * *

テツデン・カシマは、社会は、大きな出来事があるごとに、いままでの習慣が乱され、その出来事に対処できるように、古くからの習慣に新しい習慣を統合し、変化をくりかえしてきたとします。日系人に関しては、日本から移民した当時の危機的調整時を経て、20世紀初頭の排日の時代、それに続く適応の時代、開戦後の突然の強制収容、そして今回の生活の再調整期、それにつづく謝罪と賠償運動と、大きな出来事を経て、日系社会も日系というエスニックアイデンティティも変化を遂げてきました。3

再出発というと明るい響きがありますが、決してそうではなく、「米びつに手をいれても何も出てこない状況下で…… ドアをノックする音が聞こえ、出てみると食料品を入れた袋や温かい食べ物がおいてあることがあった。母は神様のしわざだと言っていたが、もしそうだとすると、神の使いは、僕たちの苦境を知った心やさしい日系の友達に違いない」とのダニエル・オキモトの当時のエピソードも、カシマは紹介しています。4


1. 危機的状況下での生活の立て直し
    <1945年から1955年にかけて>

やり直し———アヤコ・ナガタ5

ツールレイクを後にしたアヤコの家族は、シアトルに戻ってきました。二番街でバスを下り、荷物をかかえて徒歩でジャクソン通りの坂をのぼり、レニア通りとウエラー通りの角にある日本語学校に辿り着き、そこでキノシタ夫妻に会いました。父親の友人の紹介で、比較的大きな教室に住んでいたキノシタ夫妻は、一面識もなかったアヤコの家族に一緒に住むよう連絡をくださっていたのです。 

戦後のひどい住宅難と、いまだに日系人には家を貸したくない大家が多く、収容所からでた日系人は、住宅を見つけるのが難しく、仏教会、教会、トレーラー6等を仮の宿にしていました。幸い立ち退き前の家に帰れた家族は、複数の家族を世話しています。シアトル日本語学校にも、ミニドカから帰ってきた二十家族以上が教室を使って住んでいました。

父は老人ホームの料理人から住宅公団の野外整備の仕事まで、手にはいる仕事はなんでもしていました。でも、どの仕事もあまり給料がよくなかったので、常に新聞の求人欄で新しい仕事を探していました。ある日、肉を解体する仕事をみつけ、さっそく面接にでかけましたが、そこで、この仕事をするのには背がひくすぎると言われます。一度決めたらなかなか諦めない父は、一週間給料なしで働かせてくれと頼みこみ、一週間後には無事本採用になり、流れ作業で次々にやってくる牛や豚の解体の作業をしやすくするために、会社は背のひくい父のために踏み台をつくってくれたとのこと。たいへんな肉体労働だったようですが、約5年ここでがんばって……。

その後も、アヤコの父親はさまざまな仕事をして、三つぐらいの仕事を掛け持ちしていたこともあります。エレベーターの操作をする仕事をしていた頃のことですが、あまり英語が話せないという理由で、日本人の同僚が解雇された時、アヤコの父親はすぐにマネージャーのところに行き、子どもの多い同僚の代わりに、「僕を辞めさせて下さい」と申し出ています。会計事務所で仕事をすることになった時は、とても喜んでいたのですが、すぐに所長に呼ばれます。所長は申し訳なさそうに「私はあなたのことが気にいっているのですが」と切り出しました。もし日系人を雇うなら、他の職員が全員辞めると言っているというのです。父親は、「わかりました」とその場で辞職しています。

母は、強制立ち退き前に仕事をしていたシアトル・グラブ・ファクトリーに戻り、帆布と皮の作業用の手袋を縫う仕事を始めました。出来高払いで何の保障もありませんでした。母が引退する4年ほど前にボス製造工業がシアトル・グラブ・ファクトリーを買収した時に、はじめて母も長年一緒に働いて来た同僚と一緒に、組合並みの給料と健康保険、退職給付金を受けられることになりました。しかし、シアトル・グラブ・ファクトリーで33年働いた記録は、新しい会社には移されず、新しい会社で4年働いただけだったので、退職後は月々ほんの10ドル(1000円)の年金を受け取っていました。それでも母は、英語も話せず他の仕事につくことが出来なかった一世の女性たちに仕事の機会を与えて下さったと、シアトル・グラブ・ファクトリーの持ち主であったディビス夫妻に、いつも感謝していました。

後にアヤコの母親が病気になり手術をしたことがあります。術後、まだ麻酔のかかったままの母親の手が小刻みに動いています。何だろうと一瞬考えていたアヤコでしたが、ああ、これは手袋を縫う母の指が生地をミシンの針へと送っている動きだと気づき、「ああ、お母さん、長い間本当にありがとう」と感謝の気持ちで一杯になったといいます。

ルーバーブ農園———ジュンゾーとリヨ・イタヤ7

ビリーのおじいちゃんとおばあちゃん、ジュンゾーとリヨ・イタヤの最後の望みだったルーバーブ農園はどうだったのでしょう。 

話を一旦立ち退き前に戻し、ジュンゾーが1942年3月13日にFBIに逮捕され、立ち退き準備を一人でしなくてはならなくなった母親のために、カリフォルニア大学バークレイ校で勉強していた21歳のサミーが、学業半ばで帰ってきたところから始めます。

サミーは借りている10エーカーの農園のルーバーブをどうするか考えた末、苗の持ち主の自分と、ルーバーブの世話をする新しい借地人と、地主のポール・ウイルソンとの3人で契約書をかわしました。4月27日、立ち退きの前日に。それほど時間がなかったのです。この契約書には、ルーバーブの苗はこの農園で大切に育てられ、戦争が終わり次第、サミーがウイルソンに154ドルの土地滞納代を払えば、すべてサミーに返却される、その間は、新しい借地人がルーバーブの世話をし、ウイルソンが収穫物の販売にあたり、利益は三者で均等に分ける、と明記されていました。

しかし、カリフォルニア州ノーウォークにあるルーバーブ農園の持ち主だと思っていたウイルソンは、とんでもない人だったのです。すべてが嘘で、農園は1937年に税金不払いでカリフォルニア州に差し押さえられていて、すでにウイルソンのものではなかったにもかかわらず、ウイルソンは法律の網の目をかいくぐって、長年イタヤ家から借地料を徴収していたのです。その上イタヤ家が仮収容所に移って何か月もしないうちに、農園を鋤で掘り返し、ルーバーブの苗をめちゃくちゃにしていました。農場の中でイタヤ家が所有していた二棟の移動式建物も、壊されたのか持ち去られたのか、最後の望みは、跡形もなく消えていました。

ジュンゾーとリヨは、1946年にカリフォルニア州ハリウッドに戻って自動車修理店を開店したビリーの家族のもとに行くしか仕方ありませんでした。幼かったビリーにとっては、バラックの裏に積み上げてあった石炭の残り火の中に飛び込んだ時に負った小さなやけどの跡だけが、収容所生活で残った傷跡で、精神的に傷つくことはなかったそうです。しかし、ビリーの祖父母は、苦労してこつこつと築いてきたものをすべて失い、もう一度やり直すには年を取りすぎていました。
 

ベインブリッジ島での「おかえり」

新米レポーター、ポール・オオタキとそれに続く仲間が、ウォルト・ウッドワードの新聞に送っていた収容所便りを、島に残った人々は興味深く読んでいたようです。「……一週間に一度だったと思いますよ。誰が結婚したとか、どこに赤ちゃんがうまれたとか、どなたか亡くなった方もいましたね。みんなは収容所でも野球をしていたんですよ。それで、だれがチームに入っているかとかそんな事でしたが、面白かったですよ。収容所に行ったみんなが元気でいるか、どうしているか知るために、島の人はみんな読んでいました」と語るのは、高校の野球部員だったアール・ハンセンです。8

幸いにもサリー・シマコ・ニシモリ一家が島に帰って来た時には、家も家具も農園も残っていました。友達や隣人が世話をしてくれていたお陰です。島に残して来たものでサリーたちが必要なものを収容所まで送ってくれたりもしています。しかし、サリーにはとても心配していたことがありました。

「高校でみんなに受け入れてもらえるか」って。13歳になったかならなかった頃で、本当に怖かったんです。学校がはじまると、いままでのシマコじゃなくて、アメリカ風にサリーって出席簿にサインすることにしました。それからと……あ、最初の日に、幼稚園から同じクラスだったシャノン・スタッフォードとレイ・ロウリィがやってきて「おかえり!」って言ってくれた時には、もう天にも昇る気持ちでした。だって、だれも私を受け入れてくれないと思っていたのですから。9

第5章(2) >>

注釈:

1. Kashima, Tetsuden. (1980). Japanese American Internees Return, 1945 to 1955: Readjustment and Social Amnesia. The Phylon, the Atlanta University Review of Race and Culture, Vol. XLI No. 2.

2. エステル・石郷著、古川暢朗訳、「ローン・ハート・マウンテン———日系人強制収容所の日々」石風社 1992

3. Kashima, Tetsuden. (1980). Japanese American Internees Return, 1945 to 1955: Readjustment and Social Amnesia. The Phylon, the Atlanta University Review of Race and Culture, Vol. XLI No. 2.

4. Kashima, Tetsuden. (1980). Japanese American Internees Return, 1945 to 1955: Readjustment and Social Amnesia. The Phylon, the Atlanta University Review of Race and Culture, Vol. XLI No. 2.

5. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, 2013 at Seattle, Washington.

6. 簡易台所、トイレ、ベッドが備わっているキャンピングカーのような車

7. Muller, Eric L. (Ed.). Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2012.

8. Earl Hanson, interview by David Neiwert, May 27, 2004. Densho Visual History Collection, Densho.

9. Sally Shimako Nishimori Kitano, interview by Frank Kitano, February 26, 2006. Bainbridge Island Japanese American Community Collection, Densho.

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

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Sobre esta serie

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。